僕の父さんは、技術の仕事をしてきました。
樺太から、なんの縁もない北海道に移転させられて、
自分で仕事を興したことは、すごいことだと思います。
僕は、1994年に、名古屋から北海道に戻ってきました。
そのあと、父さんの仕事を手伝います。
自動車の電気装備品の修理です。まったく知らない分野です。
そこで、父さんは僕に修理の仕方を教えるのですが、
それは「教える」ではありませんでした。
「いいか!一回しかやらないからしっかり見てろよ!」と言ってから、
いつもの倍くらいのベースで機械を分解します。
そして「どうだ!」とどや顔です。
そんなん、おぼえられるわけないじゃん。
それは、「教える」ではなく「自慢」でした。
だから、僕は同じ事ができません。
すると、怒られます。
「なんでこんな事もできないんだ!こんなんじゃあ、使い物にならないぞ!」
なんでこんな事もできないのかというと、それは、知らないからです。
そして、教えてくれないからです。
使い物になるかどうか・・・。あなたが使い物にならないというのなら、そうなのでしょう。
でも、その原因は、あなたの教え方が間違ってるからです。
だのに、なんで、マイナスの評価をされなければいけないのだ。
ものすごいストレスでした。
でも、いまでも、僕の父さんのようなことをやってる人は沢山います。
「自分ができることができてあたりまえ。できない奴は、使い物にならない。」
それは、あなたの基準でしょ?
あなただって、他の人から見たら、そう思われるのかもしれないよ。
僕は、常に気を付けています。
自分にできることは、他人にはできないかも知れない。
でもそれは、その人の能力が低いのでも、その人がずるいのでも、
その人が愚かだからでもない。
だって、僕にだって、できないことは沢山ある。苦手なことも沢山ある。
だから、分担しようよ。助けあおうよ。
同じ事ができる人がいたなら、その人に任せて、自分はもっと難しいことに挑もう。
同じ事ができない人がいたら、その人には、その人が得意なことをやってもらって、
ぼくがやればいい。
それが、社会を構成する上で、最も重要なことなのに、
なぜか、「教育」の立場にいる人は、上から目線の自分基準で、「評価」してきます。
そして、それを学んでしまった人は、それをやってしまいます。
この世に、同じ人間はいません。
だから、自分を基準にすべきではありません。
もちろん、仕事の上では、「これができないと、この仕事はできない」という閾値は
必ず存在します。
でも、それは「仕事」に関する閾値であって、人格や、人間性や、自己存在とは、
まったく関係ないです。
だから、だれかに、「こんな事もできねえのか。使い物になんねえぞ」と言われても大丈夫。
自分の存在意義を疑う必要はありません。
もっとちがう、自分が輝ける場所があります。
そこを探すべきです。
探すために、もっとも重要なのは、
(1)自分のいいところをさがす。伸ばす。
(2)それを必要とする仕事を探す。
(3)その仕事をしてる人と仲良くなる。縁を作る。
です。
そのためにも、本当は、趣味とか、遊びとか、大事です。
それらは、仕事ではないからこそ、だれにも文句言われません。評価もされません。
なんぼでも失敗できます。リトライできます。そのうちに、能力が向上します。
それが、活かせる仕事に出会えたら、とってもいいですね。
ただ、要注意なのは、「お金を払ってしてもらうサービス」では、
能力向上はあまり期待できないということです。
だから、遊びや趣味は、そうじゃない分野のものも持つべきです。
知恵と経験が増えるような趣味を持つと、それは仕事にも活きてくると思います。
他人の、偏った基準による評価に負ける必要はありません。
他者評価で自己存在を疑う必要はりません。
自分を必要とする人を探せばいいです。
そのためには、やっぱり、いろんな人と関わって、自分を伝え、相手を知るチャンスは
あったほうがいいです。
勇気をだして、人間と関わってみて欲しいと思います。