子ども達の主体的な学びを支えよう。 | 植松努のブログ

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講演でしゃべりきれないことを書きます。

前にも書いたと思いますが、

植松電機には、沢山の学校が来ます。

大きく、二つの種類に分けられます。

 

ひとつは、強制と命令によって思考を奪う学校です。

こういう学校の生徒は、常にざわざわうるさいです。

だから、「静かにしろ!」「「注目しろ!」「話を聞け!」と、

先生はヒステリックに怒鳴ります。

そのときだけ、静かになるけど、魂は入っていません。

「めんどくせー。」です。

命令や強制に対してのサボタージュは、

「だらだらする」「寝る」「わざと遅く行動する」です。

だから、なおさら先生はヒステリックになります。

これは、悪循環です。

 

もうひとつは、思考さえる学校です。

こういう学校の生徒は、とても朗らかで賑やかです。うるさいくらいです。

しかし、マイクのスイッチが入っただけで、シーンとなります。

こういう子達は「静かにしろ!」ではなく、

「情報を得ることの重要さ」を教えられています。

だから、主体的に情報を得ようとします。

こういう子達は、行動も速いです。

なぜなら、「速くしろ!」と命令されていないからです。

こういう子達は「速く行動をしたら、いいことがある。」ということを学んでいます。

 

子ども達が、指示に従わないときに、

強制的に指示を守らせるのか?

それとも、

その指示はなんのための指示なのかを考えさせるのか?

では、真逆と言えるほどの差が生じます。

人生が、輝くか、台無しになるか、ほどの差です。

 

僕は、学校の授業で教えられておぼえさせられたことは、ほぼ忘れています。

しかし、自分が好きでおぼえたことは、小学校の頃のことでも忘れません。

この差は、とても大きいです。

 

最近、小学校1年生での学級崩壊などが話題になっていますが、

じゃあ、幼稚園で学級崩壊ってしてるのかな?

僕が知ってる範囲では、年長さんはかなり大人です。

しかし、小学校に入ったとたんに、下っ端扱いされて、命令と強制されて、

急激に幼児退行が進む子が目立ちます。

 

学校って、いったいなんなんだ。

先生のよしとする生徒像は、本当に教育の目的と一致しているのか?

時々、それをすごく感じてしまいます。

 

もちろん、ちゃんと思考する子ども達を育てている学校や先生も沢山います。

そういう人達は、先生の勉強会などにも、参加するし、発表もします。

しかし、そうではない先生は、勉強会に行かないし、行っても寝てます。

 

学ぼうと思わないと、学べないです。

学ぶと言うことは、そうとうに主体的なものです。

しかし、命令と強制は、主体性を奪います。

強制的に勉強させられて、その結果、がんばっても努力しても成績が悪い人は、

努力そのものをムダだと考えるようになってしまいます。

そうなったら、もう、その子は学ぶ努力をやめてしまいます。

そういう人が、先生や保護者になったら、

「だらだらする」「寝る」「わざと遅く行動する」という、

サボタージュをする子達を作ってしまうのだと思います。

 
この連鎖を断ち切るためには、
主体的な学びを妨げない教育がものすごく重要です。
子ども達が興味や関心を持ったときに、
調べ方や、確かめ方や、議論の仕方や、計画の立て方やなどの、
興味や関心をさらに伸ばす方法を教える教育が必要です。
 
子ども達に意味を考えさせず、ヒステリックに命令と強制をする先生は、
現在では、先生として不適格だと思います。
「余計なこと考えないで、言われたことを、言われたとおりにやればいいんだ!」なんてのは、
不適格の最右翼です。
でも、ずーっとそういう教育を受けてきちゃったからねえ。
 
僕らにできることは、子ども達の主体的な学びを支える先生を支えることかな。
そして、僕ら自身が、子ども達の主体的な学びを支えるべきです。
子どもが興味や関心を持ったことを、
「くだらない」「そんなことおぼえてどうするの?」
「そんなことやってる暇があったら、勉強しなさい!」
なんてふうに、言わないことが、がんばる先生達を支えるためにも大事だと思います。