僕が、飛行機やロケットの仕事をしたい、と言ったとき、
学校の先生をはじめとして、当時関わりのあった多くの大人が、
異口同音に「そんなのは、東大に行かないと無理だ。」と教えてくれました。
しかし、母さんは、
「あんたならできる、頑張れ」とも
「お前には無理だから、あきらめなさい」とも言いませんでした。
「思うは招くだよ。」という、めちゃめちゃ気休めな言葉を教えてくれました。
結果的には、この言葉のおかげで、僕はいろんなことができています。
他人の夢を聞いたときに、
なぜ、出来無い理由をおしえるのでしょう?
なぜ、食えるか喰えないかをジャッジするのでしょう?
なぜ、夢を否定するのでしょう?
そんなことしても、何のとくがあるのでしょう?
僕はブログでいろんなことを書きます。
だから、いろんなことを言われます。
なかでも困るのは「お前の考えは間違っている」と言われる事です。
なぜ困るのか?
僕が書くことは、僕が経験した事実に基づき、僕が思考した結果です。
それは、正いとか、正しくないとかを、ジャッジされるようなものではありません。
もちろん、僕が書いた事の中に、固有名詞や、数値が間違っている場合には、
それは「間違っているよ」と教えてもらえることはありがたいことです。
なおせばいいだけです。
しかし、思考を「間違っている」と言われても困ります。
それは、僕の経験や、僕の人生や、僕の存在を否定することと同じです。
でも、それを平気でやってしまうひとが少なくないです。
人間は自由です。行動も思考も自由です。それは尊重されるべきです。
だから、たとえば、僕がCoCo壱番屋のカレーが好きです。というのは、
僕の自由です。僕の経験に基づく思考です。
それに対して、「お前の考えは間違っている。俺はCoCo壱番屋のカレーは嫌いだ!」と言われても、僕は困ります。
別に僕は、その人にまで「CoCo壱番屋のカレーを食え!好きになれ!」と言っていません。
だから、僕の好きなことを否定される理由がわかりません。
この人が、自分のブログやTwitterで、「俺はCoCo壱番屋のカレーが嫌いだ」と書くのであれば、それは言論の自由です。
しかし、他人の考えを否定し、他人の考えが正しいとか間違ってるかをジャッジするのは、
言論の自由の侵害です。
また、以前、「子どもの頃に、飛行機やロケットの仕事をしたいといったら、そんなのは東大に行かないと無理だ。と先生に言われた。」という、僕の経験を書いたら、
(1)いまは、子ども達が何をしていいのかわからなくて、どうすればいいかを保護者が教師に聞いてくるような状態だ。そんなこと聞かれても教師は責任を負えない。だから、いまどきそんな強制的な進路指導をする教師はいない。嘘を書くな。
(2)飛行機やロケットの仕事をするためには、東大クラスの学校に行かないといけないのは事実だ。夢みたいなことを言ってる子どもには、現実を認識させる厳しい指導が必要だ。
という反論が来ましたが、それはそれぞれにその人達の経験に基づく事実でしょう。
でもそれを、「お前の考えは間違っている」と、僕に教えるのはナンセンスです。
自分の意見を「我々は・・・」と、みんなの意見であるかのように言う表現方法だそうです。