小説『命泣組曲⑤』~虹乃は、時間の迷宮から脱出することができるのか? | 『にゃんころがり新聞』

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命泣組曲⑤

 

 

文:にゃんく

 

 

 

夢人は瞬間迷ったあと、操作パネルの最上階である六階のボタンを押した。あたしが手を繋いだ彼の顔を見あげると、
「偉い人は、いちばん上にいるもんだ」
と彼は言った。お婆ちゃんになっても、夢人はあたしの、頼りになる人だった。思わず手に力がこもる。エレベーターは三階で停止し、モップが放り込まれてあるバケツを手にさげた用務員さんらしき男の人が、
「こんばんわ」
と言って乗り込んで来た。あたしたちも、挨拶を交わした。薄汚れた、灰色の作業着を着た用務員さんは、五階のボタンを押し、あたしたちの姿を一瞥した。

「どちらへ?」
エレベーターが緩慢な速度で上昇してゆく。
「理事長に話があるんです」
と夢人が答えた。
ドアが開き、バケツを床から持ちあげた用務員さんが、ケージから出ていきながら、
「行くのは、よした方がいい」

と言った。

「それに、理事長は、会ってくれんだろうよ」
あたしたちが何か答える前に、ドアが閉まった。
六階に到着し、薄暗いフロアのなかを進んで行った。FとかGなどという札が各部屋の入口に掲げられている。夢人はいちいちドアを開けて首を中に突っ込んで確認していたけれど、中はどれもあたしが寝かされていた病室とまったく同じ造りで、どの部屋のなかにも、枯れ果てたような、あたしと同じ年頃の老人ばかりが横になっているだけだった。
フロアの隅に、あたしたちは非常階段を発見した。入院する前に外部から見たかぎりでは、この病院はそれほど高層建築ではないはずだったけれど、非常階段は螺旋状に何処までも上に伸びていて、最上階が霞んで見えないほどだ。
ヒューヒューと身を切るほどの冷たい風がぽっかり口をあけた暗闇の真下から吹きあげてくる。まるで冬場のエベレストの峰に置き去りにされたような、手摺りも設けられていない不安定な鉄骨の足場を、寂しげな足音を響かせながら、あたしたちは一段ずつのぼっていった。あたしの履いたスリッパがペタペタ鳴った。
十五段ほどのぼるごとに右手に部屋の扉があらわれる。そのたび夢人はノックをし、ドアを開け中を一室ずつ確認していった。ひとつめの部屋は、ただの物置だった。ふたつめは、仮眠室で、みっつめは手術室だった。四つめの扉を開くと、白衣を着た医者(あたしの病室のお爺ちゃんが亡くなった時に、死亡判断をした医者だ)が、机に手をかけ足元にスカートがずり下ろされた看護婦さんの、突き出た剥きだしのお尻を、平手でぴしゃぴしゃ叩きながら、腰を前後に動かしている最中だった。医者は、
「……ん、」
と言ってあたしたちの気配に気づいて振り返ったが、腰の動きはそのまま継続したままだった。夢人は動揺し反射的にドアを閉めた。彼は気持ちを切り替えようとする様子で深呼吸を二度繰り返した後、次の部屋へ向かうため、階段をあがって行った。あたしもその後に続いた。夢人が扉をノックする。中から応答はない。彼はゆっくりと扉を開けた。そこはまた仮眠室らしかった。部屋の隅に寄せられた小さいベッドのうえで、下半身を露出させた幼顔の看護婦が身を起こし、片方の脚を立て、艶めかしく誘うような姿勢でこちらを見つめている。看護婦は「あら」と言いたげに眉をあげ、黒っぽくのぞいている陰部を隠すために女の子らしく脚を内に傾けた。まるで自分は覗きをされている被害者と言わんばかりの表情で。
夢人は軽く咳払いをし、見たくないもの、関わりになりたくないものを封じ込める手つきで、扉を押して閉めた。
それから部屋は際限なく続いた。何段もの棚の設えられた薬置き場、フライパン、ガスコンロの設備が整った厨房、フラスコや人体模型の人形、ネズミなどの剥製、ホルマリン浸けにされた乳児などが並べられている、嫌な臭いの漂う実験室、大型テレビが設置され、高価な音響設備が揃っている映画鑑賞室、サウナ室も併設された温泉、卓球台のある遊戯室、いろんな型のマッサージチェアが置かれたリラクゼーションルーム、……。螺旋状の階段はいつ果てるともなく伸びている。
「くそっ、理事長の部屋は何処なんだ」
と夢人は言った。あたしはもう、フラフラで、歩けなくなってしまった。息切れがし、貧血気味の目眩に襲われる。
「駄目、なんだか気持ちが悪いの。もう歩けない……」
あたしは夢人の手を離し、鉄骨のうえに蹲る。
「ぼくひとりで、捜して来るよ」
そう言って、夢人はあたしを置いて、ひとりで階段をのぼって行こうとする。
「待って、行かないで」

とあたしは叫んだ。

「あたしを、ひとりにしないで、お願い」
夢人は片手で頭を掻き毟っていた。そうして、
「くそっ、どうすりゃいいんだ!」
そう言って、鉄骨の階段を靴底で蹴った。そのとき下の階から何かの金属がぶつかりあう物音がした。階段から顔を覗かせて見ると、二周半ほど螺旋階段を下がったところに、モップを持った用務員さんがいて、あたしたちを見あげていた。
「理事長の部屋は何処です?」
と夢人が用務員さんに訊ねた。夢人の声が果てしなく続く奈落の底に呑み込まれていった。用務員さんは、首をふった。彼は頭を垂れて階段を降りて行こうとしている。
夢人が階段を一段飛ばしで駈けおりて行った。すぐに用務員さんのもとに辿り着くと、詰め寄って言った。
「お願いです、あの子の命がかかっているんです、理事長に直談判をしに行かなければ、ならないのです。教えてください、理事長の居場所を。御存知なんでしょう?」
用務員さんは、かわいそうなくらい縮こまり、顔をそむけている。
「わしの口からは、とても……」
「あなたから聞いたということは、絶対内緒にします、ですから、お願いです」
夢人は用務員さんの手を両手で握って、さらに懇願している。
「あの子は、つい数日前まで、女子大生だったんです。それが、この病院で手術を受けてから、あんなふうな老婆になってしまったのです。こんな理不尽なことがあっていいのでしょうか?」
首をすくめるような仕種をしている用務員さんの足元に、夢人が這いつくばり、土下座をする。用務員さんは、迷惑そうな顔つきをしながら、何度も頭をさげている夢人の手をとり立ち上がらせると、あたりをキョロキョロ見回した。そして観念したように、斜め三十度の方向にある部屋の扉に向け震えた指先を伸ばしていた。
「そこに、理事長がいるんですね?」
と夢人が訊ねると、用務員さんは静かに頷き、もうこれ以上は一言も話したくないというふうに、くるりと振り返り、とぼとぼ階段を降りて行った。あたしはゆっくりと、壁に手をつきながら、鉄骨の階段を下りて行った。すぐに夢人が数段のぼって来て、用務員さんが指差した部屋の前であたしたちは合流した。
「でも変ね、此処はあたしたちがもう、中を開けて確認した部屋よ」
夢人も、そのことには気がついていたふうだった。
「たしか、誰もいない、サウナ室のある温泉だった筈だ」
あたしたちが視線をうつしたときには、用務員さんの姿は消えていた。
「謀(たばか)られたかな」
と夢人は呟いた。あたしはその部屋の扉をノックしてみた。しばらくしても、予想通り、何の応答もなかった。
念のため、扉のノブを回して開けようとしたとき、中から遅れて、「どうぞ」

という高い声がし、あたしは石になったようにそのままの姿勢で固まってしまった。夢人の瞳の色が動いた。彼が力強く二度、頷いた。半信半疑のまま、思いきって扉を開くと、そこはサウナ室でも温泉でもなかった。部屋の奥の窓ガラスの向こうには百万ドルの夜景が透けて見え、左手の本棚には、厚手の本が数段にわたりぎっしり並べられている。正面には高級木目の机があり、最新型のデスクトップのパソコンが横向きに設置され、画面から青白い光が漏れている。中央の、本革張りのソファに坐っている男のうなじが見えた。
「よくここまで辿り着いたね。褒めてつかわす。ひひ」
あたしたちは身の危険がないことを確認したうえで、扉を閉めると徐々に部屋の入口に身を入れた。男が組んだ脚をかけているガラスのローテーブルのうえには、ウィスキーの瓶と液体の入ったグラスが置かれている。
「君たちが此処までやって来るということは、どうやら多数の裏切り者、そして任務怠慢者が出たということだね」

と男が言った。

「まあいい。それについては、追って厳しい処分がくだされることだろう」
「あんたが、理事長か」
と夢人が問い質した。
男はテーブルのうえのグラスを手に持ち、ぐいと呷った。カランという氷の音がした。
男はグラスを手に持ったまま、立ちあがり、此方に向き直った。理事長でさえなければ、かわいいと思えるくらいの、十二歳がらみの少年だった。
「いくつに見える?」
と少年は小首をかしげてみせた。
わたしたちが黙っていると、少年はひとりで続けた。
「患者から採取したエキスを飲むほどにどんどん若返っているんだ。ほんとうは、六十九歳だよ。吃驚だろ? とても終戦の歳に産まれたようには見えないだろう?」
ひひひ、と少年は笑った。グラスのなかの氷がカランと鳴った。

 

(つづく)

 

 

 

 

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