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(命泣組曲①↑の続きです。①を読んでいない方はこちらからどうぞ。)
命泣組曲②
イラスト/humi humi
あたしはふと我にかえり、鏡が見たくなった。部屋のなかを見回してみたけれど、窓のそばの棚のなかにも、棚のうえの小物入れのなかにも、鏡らしきものは何処にも見当たらなかった。
ベッドの下に揃えてあったスリッパを履いて、立ちあがった。
「何処に行くの?」
と待っていたかのように、栗色毛の女が訊いた。
「ちょっと、お手洗いよ」
とあたしは応えた。あたしが歩きだすと、女は、
「私もついて行くわ」
と言って、部屋を出て、廊下を歩くあたしの腕をとって並んだ。女の連れ添いは、まるで重病人のお供でもしているかのようで、それがあたしを不快な気持ちにさせた。
「大丈夫よ、ひとりで歩けるから」
身を揺すぶって、絡みつく女の腕をほどいた。女は困ったような顔をして、それでもまだチャンスがあれば腕につかみかかりそうな気配をみせていた。女は、あたしの左後方の、つかず離れずの距離を保ちつつ、くっついて来ていた。そのとき何かのはずみで、あたしはよろめいてしまった。灰色の壁に手を添えて、トイレのマークがあるところまで歩いて行こうとする。なんだか、この一週間のあいだに、ずいぶん軀が弱ってしまったように思えた。
スリッパを脱いで、タイル張りのトイレに入った。まず探したものといえば、鏡だったのだが、あたしの行動を見透かしたように、その鏡が何故かぜんぶコンクリートで塞がれているのだった。
仕方なく洋式の個室にこもり、用を足そうとした。ふと床に、ビラがいちまい落ちていることに気づいた。
若返りのエキス、
一本百万円
これさえ飲めば
あなたも永遠の若さが手に入ります
歓びの声 各界から多数!
数量限定
早い者勝ちです
ビラには男の写真が掲載されていて、
「病院の理事長も、このエキスを飲んで若返りました。どうか一刻も早くお試しください」
という言葉とともに、男の写真の下には、長生病院理事長 唯野 亜句田という署名がいれられている。
用がすんでから、廊下に出ると、女はあたしの戻りを、壁に凭れてじっと待っていた。
「行きましょう、お母様」
女は腕をとって病室へ戻ろうとした。お母様、という言葉に、自我が敏感に反応し、あたしはわざと女の手を乱暴にふりほどいた。
「あたしは、あなたのお母様なんかじゃない!」
と叫ぶと、廊下で遠くのほうにいた看護婦さんが立ち止まって吃驚した様子で此方の方を見ていた。栗色毛の巻き毛の女は、困った人を見るように、あたしを見つめていた。女の目尻のところにある皺が目についた。
「お母様、いったいどうしたのよ? 落ち着いてよ」
と女はまた言った。あたしは女を残して、ずんずん廊下をすすんで行った。病室へは戻らなかった。それとは反対の、エレベーターへ向かった。
「ちょっと、何処行くのよ、お母様」
とまだしつこく言い縋り、手を差し伸べてくる女をその場に残し、エレベーターのボタンを連打してドアを閉め、四階から一階へとおりた。一階の受付から、電話で実家に電話をかけてもらおうとした。携帯は、病室からはかけられない決まりとなっていて、入院した当初に病院の事務の人に預けていたのだ。
一階の受付に駆けこんで、マンガ本を読んでいた男の人に、
「家に電話をかけてほしいの」
と、ともすれば上ずりかける声を、おさえながら言った。男は三十代なかば、灰色のぼさぼさの髭を、東洋の修行僧ふうに伸ばしていて、目尻は垂れ下がり、厚ぼったい唇を、終始一、二ミリぽわっと開けていた。修行僧はマンガ本を閉じて、言った。
「それはできないって、言っているよ」
修行僧は肘をつき、偉そうに髭に手をやった。蚤が巣くっていそうな、不潔なヒゲだった。
「どうしてできないのよ」
とあたしは語気をつよめて言った。
「このあいだまでは、ちゃんとできたじゃない!」
修行僧はヒゲに手を当てたまま、その感触をたしかめずにはいられない、というそぶりを見せていた。
「またですか? なんども困らせないでください。先生を呼びますよ? おとなしく病室に戻ってください」
修行僧の手元のマンガ本には、<フリーダム・ハムスター>とあった。受付でこんなものを読んでいる人、しかもヒゲに触っていないと話もできない人に、そんなことを言われたくなかった。またですか、とは何なのよ。まるで以前にもあたしが同じことで悶着を起こしたような口吻だった。無性に腹が立った。ここの病院はおかしい。みんなして、あたしを虐めてる。そう思わないではいられなかった。あたしはこの男の髭を抜いてやりたくて仕方なかった。髭さえ抜けば、男は力をなくし、あたしは預けている携帯を取り戻せるような気がした。
あたしは手をのばし、修行僧の髭を摑んで、力のかぎり、ぐいぐいと引っ張った。数本の毛が抜けて、ぱらぱらと机の上に舞いおちた。
「痛い! 何すんの!」
<フリーダム・ハムスター>がページをとじて机上にことんと落ちた。修行僧はガバと椅子を立ち、手傷を負わされた様子で、顎を押さえながら、あたしから間合いを取っている。
首をめぐらすと、背後に病院の正面玄関があった。エントランスから外に出てみようと衝動的に思った。やっぱりこんなところ、来るんじゃなかった。ママから頼まれなければ、被験者になんて、ならなかったのに。ママはお金目当てに、この病院であたしに一週間入院することを、泣いて頼んだのだ。
ガラス張りの正面玄関に近づいて行った。宙に据えられたテレビの画面の前に並んだ三列の座席に、幾人かの待ち人が腰掛けている。自動ドアは二重になっていて、五十がらみの、でっぷりと肥えてお腹の出た警備員が、試合に出るたびに負けてくる力士のようにふやけた顔で、護衛兵よろしく出入り口ドアの傍らで屹立している。警備員の帽子に入った白いラインが心理的威圧を与えてくる。
警備員の視線を痛いほど感じたけれど、あたしはドアのそばまで歩をすすめた。額をガラスに打ちつけるほど近寄ってみたが、ドアは開かなかった。センサーが反応しやすいように手を何度もぶんぶん大袈裟に振ってみたけれど、それでもドアは開かなかった。どうやら入ってくる人は入れるけれど、出て行くためには許可のようなものが必要なのかもしれなかった。
ガラスのドアの向こうに、浴衣を着た八十歳くらいの老婆が佇んでいた。あたしと同じように、開かないドアのまえで途方に暮れ、肩をおとして項垂れている。あたしが手をすこし上にあげると、その老婆も壊れたオモチャみたいに手を差しあげた。あたしは皺皺になった頬に掌を添えてみた。ガラスに映った老婆が、狂女のように首を傾げ、指先で頬に触れている。ガラスに映ったその像がいったい何を意味するのか、咄嗟のことには理解しかねた。
「さあ、戻ってください」
警備員がテロリストから大切な施設を守るように、あたしを力士のようにどんどん押して下がらせようとする。
「帰りましょう、お母様」
いつのまにか、背後にあの女が立っていて、あたしの帯を摑み、ぐいぐい力任せに引っ張っている。
「あなたたち、いったいあたしに、何をしたの!」
とあたしは叫んで、警備員と女の手を平手打ちし、振り払った。
修行僧が受話器を耳に当て、髭を触りながら何処かに電話をかけている。あたしはもう一度正面のガラスに映っている老婆の姿に見入った。老婆は目を瞠り、今にも泣きだしそうな顔つきをしている。鏡が何処にもなかったのは、真実の姿をあたしに見せないようにするためだったのだ!
「助けて! あたし、この病院に殺されるわ!」
ソファに坐っていた数人が、何事が起こったのかとぎょっとしたようにあたしを振り返っていた。でも誰も助けに来ようともしなかった。警備員があたしを取り押さえようと、緩慢な動作でグローブのような大きな両手を広げている。
「離して、触らないで!」
「大丈夫、大丈夫ですよ、ちょっと昔を思いだして混乱してるだけなんですよね」
「誰か、助けて!」
「此処がお婆ちゃんの家なんですよ、怖くないですよ、さあ大人しくしてください」
あたしは両腕を広げTの字になり、そのままぐるぐると独楽のように回転し、誰をも近付けないよう防御と攻撃の布陣を敷いた。ぐんぐんぐんぐん速度をあげ、回転する。
「キチ子お母様、お願いだから、もうやめて」
と宥めようとするあの女の声が聞こえる。あたしの名前はキチ子お婆ちゃん? ふざけないで! しばらくは、抵抗することができた。けれども、そのうち駆け寄ってくる足音が聞こえた。白衣の看護婦や医者たちだろう、彼らはあたしの防御陣形をいとも簡単に破り、あたしは幾人もの手で首根っこを摑まれ、首にぶすっと針をさし込まれた。毒の液を注入される痛みと心臓が激しく鼓動する音、やがて襲いかかってくる痙攣、ぐったりしてるだけなのに、暴れたあたしに対するお仕置きのために、軀のあらゆる部分をつねったり擲ったりしてくる手また手、阻まれる視界と無限に広がる暗闇、なすすべもなく、それでも最後の抵抗を試み、深海で息もできずに藻掻いているような状態がしばらく続いた……
(続)
『命泣組曲③』は↓こちらから読めます。
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