学習ノート 粟裕将軍の非凡な生涯を語る(15) 淮海戦役第一段階 | 中島幼八

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    粟裕将軍の非凡な生涯(15) 

        淮海戦役第一段階

 

毛沢東選集第四巻によると、淮海戦役第一段階は1948年11月6日〜22日とある。場所は徐州から東70kmの碾庄。

第一段階において粟裕の宿敵である黄伯鞱兵団を相手に戦いの火蓋が切られた。

ところで、この段階で回顧録では全国の様子をかいつまんで書いている。「人民解放軍はこの2年来、120万人から400万人に

、そのうち野戦軍は128万人。ほかに南方の遊撃隊が5万人。解放区は東北全部、華北では一部、南方では揚子江沿岸の一部、総面積が260万km2、総人口が約2億人に達した。」とある。


今回、粟裕の相手になるのは、国民党軍第7兵団司令官である黃伯鞱(1900〜1948 天津出身、豫東戦役で蒋介石より勲章授与)である。

宿敵というのは豫東戦役で開封から撤退してきた時に包囲してきた黄兵団と真正面に衝突したが、余裕がなく、黄の一部しか殲滅できなかった。さらにその前の孟良崮戦役では敵の援軍25師団の統帥であったので、今回はやはり三度目の正直である。

 

まず、黃伯鞱軍団は15万人が徐州から東100kmの新安鎮に駐屯していた。劉峙総司令官の命令で徐州へ集結するが、うっかり大運河の大鉄橋にさしかかったところ、兵隊の大軍や避難民の大群がどっと鉄橋に押しよせて大混乱になり、3日間かかってやっと通過した。その矢先に、また友軍の寝返りに遭ってしまった。

その蜂起した友軍は写真の二人である。11月8日に国民党第三綏靖区副司令官である張克侠と何基澧の二人が2万人を率い徐州地区で蜂起した。共産党へ寝返りしたのである。二人とも秘密党員だったので、任務として党からの指令で決行したことだ。1939年入党の二人は10年近くにわたる秘密のベールを捨て、喜び勇んで新しい隊列へ加わり、淮海戦役で革命の陣営へ投じることになった。それにより粟裕の南下に通路ができたのである。

 

黃伯鞱軍団はここまでの戦闘ですでに1万人の犠牲を払い、碾庄を根城にしていた友軍の李弥兵団に援軍を頼んだが、徐州集結の命令を受けたとの理由で李が応じず、碾庄の守備施設を残したまま移動した。邱清泉兵団にも援軍を要請したが、豫東戦役時に怨恨を残したので無視された。後から黄の第7兵団が碾庄に入ったはいいが、すでに粟裕軍に包囲されてしまったのである。しかし、守備施設は堅く、双方の攻防が一進一退で埒があかない。そこで粟裕は一夜のうちに守備軍の間近くまで壕を掘る指示を下し、その掩体でついに逆転できた。11月20日、第7兵団司令部が攻め落とされ、22日黃伯鞱は自殺した。10日間あまりの戦闘はこれで終了した。

 

私は当時米軍の飛行機が撮った碾庄の航空写真を見た。ただ雲に覆われた白い塊にしか見えなかった。おそらくあれは雲でなく、砲煙弾雨と白塵三千丈であろう。戦闘の激しさは想像できる気がする。

 

     (次回(16)へ続く)

 

 

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