学習ノート 粟裕将軍の非凡な生涯を語る(2)家出事件 | 中島幼八

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中国残留孤児が語る

 

    粟裕将軍の非凡な生涯(2) 

               家出事件

 

ここで、またまた私事に触れさせていただきたい。小生の体験記「この生あるは」の最終章では、16歳のころに育てられた中国から思い切って、日本へ帰国することになり、乗船した白山丸に身を任せたまま、舞鶴の岸壁にたどり着いて、別れて13年ぶりに実母と再会した。

この16歳という年頃、不思議に男の子にとって人生の第一関門のようだ。当ブログの主人公粟裕さんもここで人生の最初の飛躍を成し遂げるのである。

彼は、16歳で家を飛び出してしまったのだ。

僕の場合、家を出るときは着の身着のままで、ほとんど無一銭であった。粟裕さんも同じ、手ぶらで家を出て、大胆にも家出事件を起こした。

 

 

 

彼の目指すところは常徳市であった。同じ省内ではあるが、船に乗らなければならい。しかし、一銭も持たずで飛び出したもので、一旦家に戻り父親に頭を下げて湖南省立常徳第二師範学校に入りたいわけを話し、路銀をせがんだ。父親も秀才試験をパスしたほどの頭脳持ちなため、倅が名門の学校を目指すなら、ということで壮行会までやって送り出してくれた。しかし、その3年後に父親の死に目にも会えず、革命の人生を一直線に突き進んだ。

 

常徳第二師範の生徒募集は、会同県に2名の枠しかないが、粟裕青年は見事に合格した。ちなみに毛沢東は長沙第一師範を出ているが、常徳にも宋教仁(孫文の同盟会リーダー)林伯渠(中共五老のうち)、史学五人衆の翦伯賛教授などの名人が輩出している。

入学するや、学生運動に身を投じる。同窓には滕代遠(のち鉄道部大臣、写真:陳毅の右一)がすでに校内で共産党の活動を始めていた。それに合流して、右翼の学生と対立を深めた。

 

 

回顧録によると、北伐軍を迎えるために、同級生の二人とモーゼル銃と200発の弾を買ったほど、武装する意識が強かった。地元の言葉で「無湘不成軍」という言い方がある。湘は湖南省の別名で、「湖南人がなければ軍ならず」というのである。湖南省では古来、尚武の風土が根強い土地柄であったという。

 

ときは1927年、蒋介石が四・一二事変を起こし、それまで共産党と組んでいた国共合作を裏切り、共産党弾圧に転じた。長沙で馬日事件が起こった。常徳にも弾圧の手が伸びてきて、共産党員の校長が虐殺され、進歩的な学生への逮捕が開始された。粟裕たちはマンホールから地下水道に入り、逃げ切ることができた。

 

さて、この先はどうなるのだろうか。

話は飛ぶが、米国ジャーナリスト・スメドレーは「偉大なる道」のなかで、朱徳の生涯を書いているが、粟裕もその偉大なる道へ合流することになるのである。(次回へ続く)

 

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