学習ノート 粟裕将軍の非凡な生涯を語る(1)生い立ち | 中島幼八

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中国残留孤児が語る

 

    粟裕将軍の非凡な生涯(1)生い立ち

 

冒頭から私事ながら恐縮に思うが、私は中国残留孤児の生い立ちを体験記の形で出版し、やたらと長く420ページにわたる膨大なものになった。同じ16歳頃までの分について、「粟裕戦争回顧録」ではかれの生い立ちをたった7ページしか書いていない。もっともタイトルからして戦争が主になってしまったことにもよるのであろう。

 

まず粟裕さん(1907〜1984)は少数民族の侗(トン)族(人口現300万)の出身である。ちなみに中国は多民族の国家であり、少数民族にはいろんな優遇政策が適用される。たとえば、漢族には一人っ子政策を実施する時代に、少数民族には人口抑制を実施しなかった。とは言っても、大勢の将軍たちのなかで、少数民族の出身は極めてまれである。

           出身地は湖南省会同県で、湖南省

西部の山岳地帯に位置する。(会の印)

 

 

こののどかな山の麓に生家がある。村の名前が楓木樹脚村という。回顧録もこの村の名で始まる。

 

家は農地を持ち、副業も経営する裕福な家庭であったようだ。現存する生家の写真を見るとなかなかの旧家である。

 

使用人のなかに阿陀(アトゥ)という青年がいた。幼少の頃、かれとすっかり仲良しになり、その語る武勇伝の人物に喜怒哀楽を強く覚え、虜になってしまうほど。しまいには、自分も大きくなったら、剣客になり、任侠の道に入り、弱きを助け、強き悪者をやり込めたいと思い込む。自ら竹に砂を詰めこみ、それを鉄砲として使い、脚にゲートルを巻き、その間に匕首を差し挟み、跳んで、はねて武術を身につけようと励んだ。勇ましい粟裕少年の姿が面目躍如する。

 回顧録のなかでは、「阿陀は人生の最初の啓蒙の師である。いまでも生き生きとその姿が記憶に刻まれている」と懐かしんでいた。

 

6歳のころ、私塾に入れられ、四書五経の書物を暗記させられる。だんだんそれに甘んじず、9歳ころ正規の学校教育を受けたいと国民学校に入る。

 

地元では匪賊が子供を誘拐する事件が多発したため、親は思い切って会同県の街に転居した。そこの街で、支配者の兵隊たちが物売りの人たちに対し横行跋扈の振る舞いをするのを目にし、生徒たちと組んで兵隊に抵抗するが、鉄砲にかなわないと悔しい思いをする。そこで軍隊を持たなければ勝てないと密かに、強く意識したと回顧録に書いている。

 

家では父親に帳簿付けを命じられるが、貸し付けたお金を返済できないで困った人を助けるために数字を書き換えたりして父親にごまかしたこともしばしば。彼の野放図ぶりを見かねて、まだ子供なのに親は3歳上の許嫁を決めて押しつけた。余計彼の強い反発を招いた。彼はなんとしてもこの閉塞感を打開して、新天地へ憧れる。そこで、彼はついに思いきった行動に出たのである。

           (次回(2)へ続く)

 

 

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僕は中国残留孤児として生き残った者です。5年ほど前に体験記を日中両言語で出版しました。ご購入していただければ幸いです。

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日本語版:「一中国残留孤児がつづる この生あるは 

               幼学堂刊 418頁
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中国語版:「一个日本遗孤的回忆 何有此生 

                北京三聯書店刊 376頁

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