茨城、取手市の女子中学生
ひとつの命が、失われたニュースを、頭を下げている じぃさんたちは、簡単に風化させられる。
見た目だけではなく、なんとなく想像できてしまうところだ。
ぬうなら、生きていられない程だと思うこの状況に、じぃさんたちは、どんなだったろう・・ 思い起こしてみるといい。
いじめの訴えを無視して、いじめの片棒まで担げる なんとも 幼稚な教師たち
こんなに幼稚(ようち)なままでいられたのは、なぜなのか・・・??
考えてみると・・・
この子の命が失われてしまうまで、どれだけの同じことが、行われていたかが疑われるところだ。
この子の一件だけを見ても、初動が手慣れ過ぎているというか、スムーズ過ぎるのだ・・この幼稚さははなはだ痛々しい。
「てめぇらは、長い年月を生きてきて、何をしてきたのか・・?」
こんな気持ちにもなる。
このスムーズさが物語るものが、オムツをしたままの大人でいられた、「かったことにしてしまえる」かれらの頭の中の思考があるということが、何度も同じことを繰り返して、なかったことにしてきた証しのように映ってしまわないだろうか・・。
このおぞましさは、だれもが本来持っている 危うさでもある。
ぼくらは、考えないでいると、何かに流されていてもわからないまま、こんなにもえぐく生きてしまえる生き物なのだ。
この危うさは、稚拙さでもある。
本来の繋がりと真摯に、着実に、向き合えていれば、考えを巡らせていれば、結果はどうなっていただろうか・・・
きっと、彼女のピアノは、今も自分の音を探していると思う。
何を守るのか、これを機会に自分で考えてみてはどうだろう・・・。
目の前の人の悲しみを、悲しいと思える人であるように、そう生きられる人でいられるように・・・。