
会社勤めの初日、
新入社員が集められた会議室に、所属するグループの上司が迎えに来たんだけど、
その時ボクを迎えに来てくれたのが、M副部長だった。
結局、会社を辞めるまでの間、ボクはずっとM副部長の下で働いていた。
たった4年間だけだったけどね。
ある時、「今こそがその時なんだ」と、ボクは彼に辞表を持っていった。
もちろん理由を尋ねられ、そして引き止められたけど、
ボクは、一度決めたことなんで勘弁してください、認めてくださいの一点張りだった。
なんて若かったんだろうね。無謀が無謀に見えないんだね。
M副部長は、
会社の決めた書式の辞表を出すこと、
そして、辞めるにあたって話を通さなくちゃならない人物には、ちゃんと説明するようにと、
最後にはボクに指示を出した。
ボクは、もともとその会社にコネクションがあったワケじゃないからさ、
辞めることになっても誰にも迷惑をかけることなんてないはずだって思っていたけどね...
でも入社4年で辞めちゃうなんて、会社に何にも貢献しない内に、辞めちゃったようなものだよな。
誰にも迷惑をかけることはなかったなんてウソで、会社全体に迷惑をかけたのかも。
K社の皆さん、ごめんちゃい。いまさらだけど。
その後、ボクが会社を辞める件は、
上司からその上司へ、そして担当の重役の確認を経て、庶務部、人事部へと連絡され、
たんたんと、着実に、退職の手続きがとられて行きました。
*****
そんな、退職への段取りがちゃくちゃくと進む、3ヶ月の間の出来事。
その頃ボクは、女房の作る弁当を会社に持って行ってたんだけど、
それが無くなったのにM副部長が気付いた。
「おい、なつむぎ!」 ← これね、鬼太郎のおやじみたいな高い声なんだよ
「お前、かぁちゃんに会社辞めるのを反対されているんじゃないのか?
それで、弁当を作ってもらえないんじゃないのか?」
さすがに、会社を辞めるんだもの、ボクだって女房に話はしてあったさ。
弁当が無くなったのは、女房はつわりだったからなんだけど、
それを正直に話したら...
「お前! 子供が生まれるの知ってて辞表を出したのかよ。ほんとーかよ。
子供が生まれるって言うのに、会社辞めてどうするんだよ」
「いや、副部長。女房の妊娠は、辞表を出してからわかったことなんです」
「そうなのか。お前だって、びっくりしただろう。そういうタイミングの悪さはしかたがない」
「えぇ、まぁ...」
M副部長は、会社組織の中でどんどん出世するタイプではないけど、とても人情家なんだ。
ボクはいつか会社を辞めようと、きっかけを待っていたのは事実なんだけどね。
でも、そんな人情家の彼に対する、会社の上層部の冷酷な発言に嫌気がさしたことが、
辞表提出の後押しをしたのは確かだったんだ。
そんなことは彼には言えない。
「はぁ... まぁ、でも、なんとかなると思いますし、なんとかしなくちゃならないと思いますし...」
そりゃ、年上の彼からすれば、なんとも頼りなかっただろうな。
今のボクが考えても、当時のボクの行動は、どう考えたって無鉄砲で、思慮がなく、頼りない。
M副部長は、しばらく目を閉じて考えてから、ボクに言った。
「おい。これから一緒に、常務のところに頭を下げに行こう。
お前の辞表を、取り返しに行こう!
オレも一緒に、お前と一緒に、頭を下げる」
M副部長は、とても高揚しているようだった。
小学生が、敵の秘密基地に、奪われたおもちゃを奪回しに行くような言い方だった。
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もちろん、おもちゃの奪回作戦は、決行されなかったよ。
もともと奪われたものじゃなくて、こちらが差し出したものだからね。
でも、帰宅して女房にこの話をしながら、
感謝の気持ちで、じんわりと泣いた。
もう、20年以上も前の話...
