自分はどうなのかと考えてみると... まぁ、両方かな。趣味が嵩じると道具にうるさくなるというのはどんな世界にもあることだと思う。
で、もう一度自分はどうなのかと考えてみると、カメラ本体よりもレンズに一番「神秘的」な魅力を感じているような気がする。
レンズの良し悪しについて話しをする時、シャープさが良いとか、ボケ味がキレイだとか、さらに細かくなると強く光の当たった部分の絵のにじみ具合に味があるなどと、描写に関することが普通はまず最初に来る。
で、その内に、ピントリングのスムーズさであるとか、どのくらいまで近接撮影ができるかといった操作感覚の良し悪しや、ガラス以外の部分のメッキやペイントの具合の美しさであるとか、シルバーのボディに似合うかどうかいった工芸的な美しさとさ、というようなところにまで話は進んでしまう。
もちろんボクもこうしたことに興味があるのだけれど、でもむしろレンズそれ自体、光学ガラスの部分に魅力を感じている。レンズを覗き込んだ時に目にする、コーティングによる色とりどりの反射光だとか、いかにも多くの光を取り入れそうなクリアで大きなレンズの曲面の美しさだとか、そういうものに心引かれることが多いのだ。まるで、人の目をじっと見つめたときに感じるような想いなのだ。
そして、こう思う。
このレンズは、いままでどんな景色を見てきたのだろうか、これからどんな情景、どんな人物を見て行くのだろうか... と。
人間と違って、もちろんレンズに何かの記憶が残るわけではない。でも、目に限って言えば、人間の目だって何かを記憶しているわけではない。いくら人の目を覗き込んだところで、その人が直前に見た印象的で美しい情景が、眼球の中から浮かび上がって来るのを見る事はできない。
でもなおボクはこう思う。写真を撮るということは、レンズが自分と同じ情景を確かに見たということなのなんじゃないかと。
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学生の時に好んで使っていた2本のレンズがあって、1本は20ミリ、1本は105ミリであった。しばらく写真の趣味から遠ざかっていた時、これらのレンズをネットオークションで売ってしまう事を思いつき僅か数千円で次のオーナーに引き取られて行った。
相場だったのかもしれない。得したとか損したとか、そういうことは全く考えないけれど、今になって思うととっても残念なことをした。
あのレンズは青年時代のボクと共に、東京での日常や、沖縄の島々での休暇、スペインの下町での生活や旅先の風景、友人や彼女の笑顔を見て来た仲間だったのだと思う。
そのレンズを通してフィルムに焼きつけられた映像は、確かに手もとにある。
でも、もう一度そういう映像と出会う事ができるかもしれないという高揚感は、売ってしまったそのレンズと共にボクの元から永遠に失われてしまったのだ。
レンズに対する愛着が「神秘的」であるのは、きっとそんなところにある。
そんな理由で、ボクは友としてあるいはパートナーとして愛着の持てるレンズを探してしまう。これからまた、機会がある度に自分と一緒に同じ風景を眺めていく仲間として相応しいレンズを、ついつい探してしまうのだ。
●もう長いこと、ネットに写真をアップすることがなかったけれど、ボクと同じ風景を見てきたレンズたちの記憶の一部がこのサイトに載っています。よろしかったらご覧ください。
