諏訪大社下社秋宮(すわたいしゃ しもしゃあきみや)
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御祭神 建御名方神 八坂刀売神 八重事代主神
鎮座地 長野県諏訪郡下諏訪町上久保5828
摂社 若宮社
末社 子安社 鹿島社 八坂社 賀茂上下社 稲荷社 皇大神宮社 秋宮恵比寿社 八幡社
境外社 御作田社 青塚社
諏訪大社は、諏訪湖を挟んで上社と下社があり、下社(秋宮・春宮)は諏訪湖の北側にあります。
下社は上社に対して下流の位置にあたり、一帯は下諏訪の中心地で、近世には中山道・甲州街道の宿場町として下諏訪宿(現下諏訪町)も設けられました。
鳥居より手前右手の石垣の上の岡に「八幡社」と「恵比寿社」が祀られています。
「八幡社」
「恵比寿社」
恵比寿社には諏訪大神の御父大國主神と御兄事代主大神が祀られています。
鳥居手前左手に「手水舎」
手水舎の後方に「千尋池」と「千尋社」があります。
「千尋社」
千尋社の後方辺りに「番屋跡」の道標があり、「宝物殿」があります。
「宝物殿」
下社は秋宮・春宮からなり、上社の本宮・前宮と異なり秋宮・春宮の地位は同格で、御霊代(依り代)が二月と八月に両社間を遷座します。
秋宮は八月~一月に祭神が祀られているため、「秋宮」と呼ばれています。
正面の大鳥居
二月一日の「お舟祭」に、御霊代を秋宮から春宮に戻します。
お舟祭では、遷座の行列の後に大きな舟に翁媼二体の人形を乗せ数百人の氏子がその舟を曳きます。
(Wikより)
「御神湯」
諏訪七不思議(下社)「湯口の清濁」
周辺は温泉の湧出地で、境内にも御神湯があります。
八坂刀売命が下社に移る時、化粧用の湯を含ませた綿を置いた場所から温泉が湧き出したという伝承があり、その温泉は現在の「下諏訪温泉」です。
この湯に邪悪人が入ると湯口が濁ると伝えられています。
鳥居の先、石段を登ると中央に杉の巨木があります。
諏訪七不思議(下社)「根入杉」
秋宮境内の、鳥居を入ってまず目に付く正面の大きな木は根入の杉と呼ばれ、樹令は約八百年(案内板では六~七百年)の御神木です。
丑三つ時になると枝を垂らして寝入り、鼾が聞こえたといいます。
子供に木の小枝を煎じて飲ませると夜泣きが止まるといわれています。
寝入杉を過ぎると狛犬さんが居て、「神楽殿」があります。
狛犬さんは、身長1.70mで、、青銅製では日本一と言われています。
国指定重要文化財「神楽殿」
神楽殿は三方切妻造りで天保六年(1835)立川和四郎二代目富昌の作です。
秋宮の神楽殿の注連縄は、下諏訪町の大しめ縄奉献会で出雲から職人を呼んで作ったもので、出雲大社のしめ縄とよく似ていて、長さが13m、重さは500㎏位(案内板では約1t)といわれています。
出雲大社型のしめ縄では日本一です。
神楽殿の左手に、手前から「鹿島社」、「子安社・加茂社・八坂社」の社があります。
国指定重要文化財「幣拝殿」「左右片拝殿」
社殿は神楽殿の後方にあり、二重楼門造りの拝殿と左片拝殿及び右片拝殿が横に並んでいます。
江戸時代中期の絵図面では帝屋(御門戸屋)及び回廊と記されていて、現在の建物は安永十年(1781)春に落成しました。
社殿の四隅には「御柱」が建立されています。
幣拝殿右手前の「一之御柱」
その後方に「稲荷社」「若宮社」「皇大神宮社」が見えます。
神楽殿をぐるりと回ってきた所に「授与所」があります。
御神湯近くに「さざれ石」もあります。
さざれ石は、石灰が雨水に溶解され粘着力の強い乳状液となって、何千年、何万年もの期間をかけて小粒な石を凝結させたものです。
あまり不思議さを感じずに見てしまいますが、実は人類はコンクリートが何故固まるかの原理さえ解明していません。
その他、下社秋宮周囲に伝わる七不思議
諏訪七不思議(下社)「五穀の筒粥」
春宮境内筒粥殿で行われる行事です。
炊いた小豆粥で1年の吉兆を占います。
諏訪七不思議(下社)「浮島」
たびたび氾濫した砥川にあって、決して土が流れて無くならなかった島です。
砥川は、長野県下諏訪町西部を流れる川で、車山に源を発し、諏訪湖へ流入しています。
諏訪七不思議(下社)「御神渡」
冬期に全面氷結した諏訪湖が、氷の厚さが一定に達したときに、大音響とともに湖面上に氷の亀裂が走りせりあがる自然現象です。
伝説では上社の男神が下社の女神のもとへ訪れに行った跡だといいます。
諏訪七不思議(下社)「御作田の早稲」
御作田は六月三十日に田植えをしても七月下旬には収穫できたと言います。
上宮の摂社「藤島社」にも同様の伝承があります。
諏訪七不思議(下社)「穂屋野の三光」
御射山祭の当日は、必ず太陽・月・星の光が同時に見えると言う伝承です。
(「境内案内板」及び「諏訪大社HP」より)
社地南側の駐車場
諏訪大社下社秋宮の南側の山王台にある駐車場は、源義仲の家臣である手塚別当金刺光盛の居城「霞ヶ城」の城址です。
高台にあるため諏訪湖北岸と周辺の街並みを一望出できる眺望ポイントになっています。
手塚別当金刺光盛は「倶利伽羅峠の戦い」などで活躍し、「加賀篠原の戦い」では平家方の斎藤別当実盛と壮絶な一騎打ちを繰り広げ、見事に首を討ち取りますが、実盛は源義仲の命の恩人だったので、義仲は号泣したと伝わっています。
戦国時代に入っても金刺氏が支配していましたが、永正十五年(1518)に諏訪頼満によって攻められると金刺昌春は武田信虎を頼って甲斐へ逃げ延びました。
遺構はないのですが、手塚盛澄の像と案内板が設置されています。
※写真は令和元年(2019)九月二十日に撮影したものです。
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