木曽三社神社(きそさんじゃじんじゃ)
☆☆☆
御祭神 須佐之男命 宇気母智神 彦火火出見命 豊玉姫命
境内社 鹿島神社 神明宮 菅原神社 八幡神社 住吉神社 愛宕神社 早虎稲荷神社 八坂神社 薬王神社 厳島神社 大山祇神社
鎮座地 群馬県渋川市北橘町下箱田甲1
境内社の他に、稲荷大神、恵原山大神、御嶽山大神、武尊山大神、猿田彦太神など、多くの石祠や石碑が祀られていて、芭蕉句碑もあります。
境内社「早虎稲荷大神」
末社群
「恵原山大神、御嶽山大神、武尊山大神」
「猿田彦太神」と「芭蕉句碑」
由緒
元暦元年(1184)木曽義仲が滋賀県の粟津で源義経に討たれた後、その遺臣だった今井・ 高梨・町田・小野沢・萩原・串渕・諸田たちが、義仲が崇敬した信濃国(長野県)の延喜式内社である筑摩郡の三座、岡田神社(宇気母智神)・沙田神社(彦火火出見命・豊玉姫命)・阿禮神社(須佐之男命)をこの地に勧請して創建したと伝えられています。
神社入口の「一の鳥居」
一の鳥居に架かる額
木曽三社神社は創建以来、瀧之宮・木曾明神とも称されました。
その後は関東管領上杉氏や、白井城主長尾氏、歴代の前橋城主の崇敬が厚く、神田の寄進や 社殿の修復等が行われました。
江戸時代中期の寛政元年(1789)に火災にあい、同六年(1794)に再建されました。
さら明治二十年(1887)代には大修復をしています。
参道脇の小さな石祠
明治二十九年(1896)には県社に列せられましたが、昭和二十一年(1946)の法令改正に伴い社格を改正され、現在は神社本庁の所管となっています。
一の鳥居と二の鳥居の間には狛犬さんがいます。
境内には「湧玉の清泉」や「セキショウ(ショウブより小さな、川岸や岩場などの湿地に自生している常緑多年草)の群落」があり、そこを中心とした全域が、群馬県環境保全地域に指定されています。
(境内案内板より)
二の鳥居の額
木曽神社遷宮の伝説
平安時代末期の元暦元年(1184)、木曾義仲は近江国(滋賀県)の粟津ヶ原で、源頼朝が差し向けた源範頼・義経軍と戦って敗れ、戦死しました。
木曽義仲の没後、その遺臣らは一時木曽の谷(長野県)にいましたが、頼朝の詮議が厳しくなり木曽は安全な隠れ場所ではなくなりました。
この時、木曽氏の信仰していた三社の神社の神官であった高梨南学院という人が、三夜続けて不思議な夢をみました。
それは「早くこの神を東の方の安全な地に遷せよ」という神託でした。
そこで遺臣らが相談した結果、神体を七重の箱に納めて東国へと旅立つことになりました。
和田碓氷の峠を越えて利根川の辺までたどり着いた時、そこに平和な村がありました。
そこに神を祀ろうとしたとき、土地の人が怪しんで「その箱は何だ」と尋ねたので、遺臣たちは「只の箱だ」と答えました。
現在、その土地は箱田と言います。
遺臣たちは、七重の箱に納めた神をその土地に祀ろうとしたのですが、神の御告は、更に今一度ここを立ち去るようにと下ったので、遺臣たちはまた旅に出ました。
今度は半日にして利根川東岸の山中のある、清い泉の所に着きました。
そこで遺臣たちは休息のため、御神体の箱を、とある石の上に降ろしました。
遺臣たちが再び出かけようとしたときに、不思議なことに箱は石に固く着いてしまって動かなくなりました。
大騒ぎして持ちあげようとしましたが無駄で、その場所(現社地)に祀り木曽一族の祈願所としたのが当社であるといわれています。
今でも神社の前に高梨氏の石像と、木曾三郎義基の御腰掛石とがあります。
「手水舎」と「祓殿」
「木曽氏遺臣之像」
「御腰掛石」
遺臣たちはここに土着して、四方に広がっていきました。
(平成祭データより)
美しい境内
神社入口一の鳥居から直線の参道の先に二の鳥居があり、二の鳥居の先には社殿が見えます。
神社入口付近から見た社地の様子は、二の鳥居まである一般的な境内のように見えるのですが、二の鳥居まで進むと光景が激変します。
二の鳥居の先は下り坂の参道になっていて、中間に三の鳥居があります。
その先には境内を横切ってきれいな小川が流れています。
その光景は潤いがあって清く感じられ、木曽の谷から旅してきた木曽氏の遺臣たちが一休みしようと思った気持ちがよく分かる気がします。
小川の先に少し上って社殿があり、その右手奥に「湧玉」と呼ばれている湧水があります。
玉垣で囲われた湧玉の湧水池からは、あちこちから水が湧き出しています。
湧玉の底から砂が踊るように赤城山の伏流水が湧き出している様子を見ることができます。
湧玉から流れ出た水が創り出している湿地にはセキショウの大群落があります。
セキショウは別名石菖蒲(いしあやめ)とも言い、ショウブの一種で地下茎が漢方薬に使用される植物です。
セキショウの茂る湿地の下は小さな崖を形成し、小さな滝となって流れ落ちています。
この滝は参道からもよく見えます。
小さな滝は小川となって境内を通り、神社下の池に貯められ、下流の集落の生活用水や農業用水となっています。
木曽三社神社の近くからは石器時代の遺跡も出ていますから、この湧玉の水は一万六千年以上前から、人々の暮らしと共にあった水ということになります。
神社の下の田んぼでは、稲が湧玉の水で育っています。とてもきれいに澄んだ水です。
(ブログ「猫のキキとヒゲおじさんのあんじゃあない毎日」参照)
※写真は平成三十年(2018)三月七日に撮影したものです。