今回は戦後七年 流寓 信州富士見高原の分水荘で客人をもてなすために、知的遊びとして繰り広げた、連句の会の一部分をその場の雰囲気や尾崎の所作とともにご披露します。
お相手が一人のときはよく三つ物とか六つ物二つ折というのをして呉れました。私も初めはこの短いのをさせられながら、俳句や歌仙を教えてもらったのでした。
まず、行人先生が(尾崎の俳号は行人と称していた)最初の五・七・五か七・七をつくる。先生は紙と硯、筆を広げて待っている。次の句は私、全然違った発想の句でよいのだが、何処かで、ちょっと前の句に付いていなければいけないのだ。
さあ 苦吟 苦吟。
昭和22年、父が富士見高原に移り住んでまもなくのころでした。
親娘で巻いた 二つ折り を写してみます。
雲は横に里は夕づく冬野かな 行人(こうじん)
ぼや燃えさかり炉端賑ふ 叡子
塩鮭の顔見ぬことも五六年 人
ゴムの林を叩くスコール 子
愛蔵のデュフュイの水絵額に入れ 人
待宵草の花ひらく丘 子
フリュートの音の冴え残る楽にして 子
銀座の裏で店をはじめる 人
聖路加の窓みな灯し夏の月 子
水羊羹に薄茶一服 人
客辞して耳立つ虫や庭の闇 子
武漢の市を又いつか見ん 人
俳句など作ったことも無いものには難儀なことでした。
師匠格の大竹さんや波之さんと巻いた連句は三巻ありますが、前に書いた昭和18年・24年に日立と富士見で巻いたもので別格ですが、穂屋野歌仙と名づけられている歌仙は、その連衆の名前をみると、よく見えるお客へのもてなしのお遊びだったのではないかと思われるのだ。
土地の人かあまり日頃俳句に縁のない客人が主だったようです。
広い十四畳もの部屋、小さい手あぶりの火鉢一つ、連衆は二尺四方の掘り炬燵に膝を入れて、先生とともに順番に句を付けてゆくのである。一月の昼間でも0下6度・7度という時、この暖房ではとても寒く、苦吟して長いこと待たされると硯の筆がじゃりじゃりと凍ってしまい、大笑いしたこともあった。
