歌仙一巻は三十六句、初めの六句を初表、次の十二句を初裏、次の十二句を名残表、最後の六句を名残裏と言い、それぞれの何句目かに月・花・恋を読み入れなければならないと教わった。
行人先生「さあ次は花だよ」と指導。
相手がどんなに長考苦吟してもこちらが付け終わるまで口を出したり、助けてくれることはなかった。 その代わり相手が長考苦吟している間、本でも読んで居て呉れれば良いのに、煙草を吸いながらじいーっと待っている。
「前句に付けるといっても、言葉を受けるのでなくても良いのですよ。雰囲気を受けるのでも良いのですよ。」
と言ったりして・・・ 。
(その間母や私は冬は寒い台所でお客に出す食事の支度)
父の俳句に関してはその著書にはあまり本人が載せていませんでした。
父の没後ずっと後になってから、私の勤務先の先輩に「東京義仲寺連句会代表」の方がいらしたのでその方に、私も仲間に入れてもらって巻いた連句を見ていただきたくて、富士見高原の森の中の古い住まいでの連句会の様子を書いた手紙を添えてお渡しした。
その一部分をここに載せてみよう。(以下…は中略の意味)
「…戦後の昭和22年~26年頃のあの不自由な殺風景な時期に、冬寒さに閉じ込められる富士見で、一里近くも歩いて見えては、連衆一同長考苦吟しました事、思えば楽しい一ときでございました。それぞれ各人が今後の生き方を模索している、内心は不安な頃でございました
…後に霧ヶ峰のヒユッテ・ジャヴェルの主となった当時は製材をしていた方や、製材の手伝いをしていた方、富士見駅前の呉服屋さん、結核で高原療養所に入院してた方たち、それにその山荘の持ち主で“お殿様”と言われていた方などで、それこそ皆連句等ははじめてと言う人ばかりでございました。私等今見るのも恥ずかしい出来で、皆さんに出す食事の支度をしているとホラお前の番だよと言はれて筆を握り、うんうん言った覚えがございます。
『このあたり、指導者さえ一人しっかりしていれば「人は皆芸術家」ヨゼフ・ボイスだ。僕はしっかりボイスの徒である。』 (「俳句未来」同人・村野夏生さん)
…長考した挙句にひねり出した句をほんの一寸注意して直してくれる。それでもう立派に前の句を受け、後につなげて行くものになってしまいました。そして少し日を置いて自分の句を眺めてみると、直された事も忘れて我ながらこれはなかなか良いと思ったのは、私ばかりではなかったでしょう。…
…東京下町の風俗、風情が時々顔をのぞかせて。…自然の事に対してはお手のものでしょうが、ある向きからは、西欧かぶれした詩人のようにも言はれてきた父の中に、下町に育った青年時代がしっかり根をおろしている…そんな事がうかがわれるのは巻いた歌仙を見るのが一番ではないかとおもったこともございました。」
と、こんな手紙を添えて歌仙のみすべてを御預けしたのだった。
三十六歌仙を巻くのにはとても一回の俳席では無理なこと度々だったので、途中でやめて、また次の機会に続きを読むと言う風にしていたようであった。 こんな苦吟の後、客人の眼は生き生きとして、なにか美しいものを見付けたように見えたのは、私の若気の感傷であったかもしれないが、 父の、人の心を読んでのもてなしへの賛辞であった。