中央線富士見駅に降り立つ。駅前に「富士見町高原ミユージアム」が堂々と建つ(尾崎喜八、伊藤左千夫など富士見を訪れた人々の資料を常時展示)。玄関脇には尾崎喜八の詩「富士見に生きて」全文を刻んだ詩碑が座る。
人の世の転変が私をここへ導いた。
古い岩石の地の起伏と
めぐる昼夜のおおいなる国、
こもごも生活を規正する国、
忍従のうちに形成される
みごとな収穫を見わたす国、
その慕わしい土地の眺めが、今
四方の空をかぎる山々の頂きから
緑の森に隠れた谷川の河原まで、
時の試練にしっかりと堪えた
静かな大きな書物のように
私の前に大きく傾いて開いている。
尾崎喜八
(尾﨑栄子・記:碑の裏面には今は亡き串田孫一氏の撰が刻まれているので、ここに掲げておきます。文章は三つに別れていて、はじめと終わりは串田さんの文で、送り仮名は片仮名、真ん中の文は喜八の文章で送りはひら仮名で刻まれています。喜八の文の出典は調べておりません。
送り仮名の表記はすべてひら仮名で記します。 碑に彫られた文は串田さんが墨書されたものがそのまま彫られている、大切な碑面である)
送り仮名の表記はすべてひら仮名で記します。 碑に彫られた文は串田さんが墨書されたものがそのまま彫られている、大切な碑面である)
尾崎喜八は明治二十五年東京に生れる 幼時
より読書と自然に接することを好み 長じて
藝術に意欲を傾けて詩作と飜訳の生活に入る
太平洋戦争後 昭和二十一年より 凡そ七年間
信州富士見に移り住む
山国の信州で 人は自然の強力な支配に従順
であり、しかもそこから生活の知恵を生み出
し、勤勉と忍耐と持久と好学の精神とを学び
養う。富士見高原でもそうだった。そしてそ
れ故にこそ私は自分の住む土地と人々とを愛
さずにはいられなかった。
温い心の交流に支えられながら この地で数
多くの優れた詩と散文を生む 後に東京へ戻
り 相州鎌倉へ移り 昭和四十九年 八十二年
の生涯を終る
串田孫一 撰並書
喜八が富士見高原の「分水荘」に居を定めたのは、昭和二十一年からの七年間。
喜八が富士見高原の「分水荘」に居を定めたのは、昭和二十一年からの七年間。
周囲を森に囲まれた他人の別荘の一隅で、『花咲ける孤独』の詩や、高原の自然とそこに住む人々を詠った多くのエッセイを執筆し、心豊かではあるが清貧、流てきの生活を送った。
尾崎喜八の隣に堀辰雄も座らせ、長い時間、三人で八ヶ岳を眺めていた