布亀ストーリー(ヒストリー)第2話 | 布亀株式会社(公式ブログ)

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布亀ストーリー(ヒストリー第2話)
「はんごんたん」と「はんこんたん」

 前回、布亀が1968年に西宮市内に自社ビルを建てたまでをお話しました。
次に進む前に、配置薬(薬売り・売薬)の成り立ちについてのお話をしたいと思います。

時は布亀の創業以前、江戸時代初期の1600年代(17世紀)まで遡ります。

【↑富山藩第二代藩主『前田正甫公』立像は、富山城址公園に】
 

★★★場所は江戸城…
登場人物は、富山藩第二代藩主「前田正甫(まえだまさとし)公」と、

福島県の三春藩主、秋田輝季(あきたてるすえ)公」。

一般的に有名な「反魂胆(はんごんたん」」のエピソードは

この2人により展開されます。富山市中心部にある富山城址公園では

再建された模擬天守に合い向かうように正甫(まさとし)公の立像が佇みます。

【↑富山城再現天守(実際には天守はなく、3つの櫓があったよう)】


 1690年、諸侯藩主が集まる江戸城で、三春藩主(福島県)の秋田氏が
突然腹痛を起こしました。
 富山藩主の正甫公は持っていた「反魂胆(はんごんたん)」という薬を

秋田氏に飲ませると、たちまち腹痛が治まりました。
これを見た各地の諸侯からぜひこの薬を自分たちの領内で販売してほしい
という願いが数多く寄せられ、正甫公はこれを機に富山から諸国へ薬を売る

“売薬さん(セースルマン)”の人選を行い、売薬の文化が始まりました・・・。
これが一般的に知られる富山の置き薬の始まりです。
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 しかし実際には事実はもっと複雑で、かつ面白いものです。

元々、高度な製薬技術は室町時代に中国から大坂・堺や

長崎に伝えられており、特に堺の万代(もず)家には中国から

伝わっていた製法で作られた秘伝の「反魂丹(その当時は返魂丹)」
が存在していました。


【↑江戸期の薬売りイメージと、実際の薬箱と懸場帳(販売記録帳面)】

この存在知った岡山藩藩主の池田氏は江戸時代の始まった

17世紀初頭から万代家を大坂より度々呼び寄せていました。

それは富山藩より先にその優れた効能を知っていたからのようです。
 

17世紀後半になって、この万代家の当主がたまたま長崎へ旅行した際、

懇意になった富山藩士の日比野小兵衛に「反魂丹」を服用させ、
腹痛を治しました。そこからが富山の置き薬に連なるスタートになります。

【↑↑様々な生薬などを納めた薬箱(ここから薬を調合しました)】

日比野は堺の万代家から製法を学び、自分の常備薬にしていましたが、

藩主の正甫公が腹痛の際にこれを献上(1683年に万代家当主の

万代常閑が富山を訪問した記録が残っています、このとき「もず」から

「ばんだい」に改名)。


 この効能に驚いた藩主が藩内の薬商であった松井屋源右衛門へ

製造・販売を命じました。そして、その薬を持っていた前田正甫公が江戸城で

秋田氏に「反魂胆(はんごんたん)」を与えた、

というのが正しい歴史のようです(諸説あり)。
 

 その後、1765年には富山藩では「反魂胆役所」を設置。
売薬のための政治的バックアップ体制を整えたということでしょうか。
対する岡山藩ではそれはなく、幕末には富山より岡山方面へも売薬が
訪れていた記録があります。
官による政策と、民間の努力によって富山は「薬の富山」としての

礎を築いたのです。

【↑布亀の救急箱はmiffyバージョン】

(第3話へ続く)
 ところで今でも富山には銘菓「反魂胆(はんこんたん)」があります。
本物の「反魂胆(はんごんたん)」にヒントを得て作られたお菓子です。
お菓子は「はんこんたん」とにごりません。
富山のお土産のひとつとしてぜひ一度食べてみてください。
もちろん薬の「反魂胆(はんごんたん)」を売るお店も富山市内にあります。

【↑富山市内で「反魂丹」を販売するお店のひとつ】