ぬめんちょ君、かく語りき

辛辣は批評の精神です。そして批評は、進歩と啓蒙の根源なのです。


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最近 iPad を購入しました。アプリをどんどんダウンロードしてさっそくいろいろと活用しているのですが、こういうガジェットを手に入れる度に技術の進歩の甚だしさに思いを馳せざるを得ません。僕が子どもの頃なんてワープロすら高価で珍しい代物だったのに、今では手のひらに世界の通じるネットワーク端末があるのですから、すごいものです。

このまま技術が進歩していったら、未来はどうなっていくのだろう? そう考えを進めるのは人間の自然な知的好奇心だと思いますが、未来予想をしていって、「ここまでは現時点で無理なく予想できる」という地点が「技術的特異点」です。それより先の地点になると、ここからではちょっと見通しがつかない。

なぜ見通しがつかないかというと、技術的特異点の先は指数関数的に進歩速度を速めると考えられているからです(「収穫加速の法則」)。データ容量のことを例に挙げると分かりやすいですが、一昔前までは16MBのチップや32MBのSDカードが主流だったのが、その当時からは考えられない速度で一気に8GB、64GBという風に爆発的に容量を増やせる技術が発展しました。このように、技術は「現時点では思いも寄らない速度」で、将来的に発展するのです。だからこそ、現時点では技術的特異点の先は予想がつかないわけですね。

さて、現時点での技術的特異点というのは、「高度な人工知能の発明」というのが一般的な見解です。現在までの人工知能の開発が継続されていって、いつの日か実用可能な高度な人工知能(AI)が開発される。そして、そのAIが、更に高度なAIを開発する。すると、そこからは人類は取り残されていくわけです。AIが主導権を握って科学技術の分野ではAIが独走していく。だから、AIの誕生以降のことは今の段階からは予想できないわけです。

さて、そのAIが支配する世界ですが、この世界を良きものと見るか、悪しきものと見るかで二つの意見に別れます。AIがどんどん技術革新をしていって、人類の利益をもたらすようになる、というのが肯定派の意見です。
一方、AIが邪魔物である人類を排除するようになるだろうと悲観的に予測して警戒を促しているのが後者の否定派の方々です。否定派の意見はSF小説やSF映画などで頻繁に取り上げられる設定なので(AIが人類を裏切って暴走するというストーリー。例えばウィル・スミスの『アイ、ロボット』とか)、イメージしやすいのではないかと思います。

これらの問題は、まだまだ遠い先の話で、僕らの生活には全く関係ない。人工知能の反逆だなんて、映画の中の問題だけでしょ?と思っている方がほとんどだと思いますが、実際、この問題をしっかりと論議する時期はもうすぐそこに迫っていると思います。
ある学者の説では、AIは2040年頃、今からわずか30年後に開発されるということです。今のうちに、『アイ、ロボット』やアイザック・アシモフの著作などにあたって、この問題を現実に直面する危機として論じれるだけの素地を築いておくことを強くお勧めします。

(この記事は2010年に別ブログに書いたものを転載したものです。2010年当時の予測を既に上回るペースで技術は進歩しています。あぁ、恐ろしや、恐ろしや)
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小学校高学年から中学生あたりにかけて、2人の作家の作品を貪るように読みあさった記憶があります。1人は太宰治で、『人間失格』を読んでバッドトリップしてから「なんでこの人は僕の気持ちが分かるんだ!」という目眩のようなくらくらした感覚で、自分の生きる意味を追い求めるように『斜陽』、『ヴィヨンの妻』、『富嶽百景』、『桜桃』などを次々と読破していきました。

もう1人は清水義範です。魂をえぐる太宰の作品とはうってかわって清水義範は完全にユーモア作品です。笑うために彼の作品を読んでいました。どこからお金が出ていたのか記憶にありませんが、彼の著作は文庫本でほとんど手に入れて手当たり次第読みまくりました。今でも僕の部屋の本棚の2列分は清水義範のためのスペースとして確保されています。

さて、清水義範にハマるきっかけになったのが『蕎麦ときしめん』です。この短編集には「パスティーシュ作品集」という異名がつけられています。パスティーシュというのは元来は美術用語で、先行作品の模倣を表していました。清水義範は「文体模写」を得意としていて、現在では、「パスティーシュ」=「文体模写」=「清水義範」という公式がひろく一般化しています。

この短編集に収録されている短編は、どれもアイディア、文体、スタイルともにほとんど満点に近いほどの完成度なのですが、特に良いのが「序文」という短編です。日本語が英語の語源になっているという奇説を唱える言語学者の論文集の「序文」だけを集めた、という体裁の作品です。この言語学者は、「nameと名前(namae)」、「killと斬る(kiru)」、「battleと場取る(batoru)」などの具体例を挙げて、英語と日本語の強い連関を浮き彫りにして、英語の語源が日本語であると示そうとしていますが、これも含めて清水義範の創作なわけです。創作と分かっていながらも、なるほど本当にそうかもしれないと思うほど説得力がある、それでいて腹を抱えて笑えるほど痛快でもあります。最後にはどんでん返しもついてきて、本当に卓越したエンターテインメントの完成形といえる素晴らしい作品に仕上がっています。

清水義範の他の作品として有名なのが、作品発表の翌年からの入試形式を変えたほどの影響力を持った『国語入試問題必勝法』や、英語の教科書の登場人物たちの未来を描いた『永遠のジャック&ベティ』、メタ小説の体裁をもった『私は作中の人物である』などがあります。どれも本当に面白い、「面白い」という形容がこれほど似合う作家は他にいないくらい、とにかく「面白い」です。

中学校時代に、清水義範という作家に出会って本当に良かったと思います。太宰治ばかり読んでいたら、もっと鬱屈した思春期を送っていたでしょうから。清水義範のおかげで苦悩の中にも笑いのある幸福な青春時代を送ることができたと思っています。
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実験的な小説が大好きです。このブログでも以前紹介しましたが、筒井康隆の諸作品や、イタリアの文豪イタロ・カルヴィーノ、2つ前に紹介したフォークナーなど、文学の定型をぶち壊そうといろいろな手法で試みている作家には、手放しでその努力を褒めてあげたいと思っています。

しかし、そのような実験的な作品は、その実験だけに頭が占領されてしまって、小説としてはあまり面白くないという事態が往々にして起きてしまっています。特に筒井康隆の作品は、安易にメタ・フィクションに逃げすぎていて、最初のうちはそれでも一定の完成度は保っていたのですが、後半になるにしたがい勢いを落して取るに足らない作品ばかりになってしまっている印象があります。

そんな中で、アラン・ロブ=グリエの仕事はかなり信頼できるといえるでしょう。どの作品にも、頭から足のつま先まで神経が行き届いていて、安心して(?)興奮することができます。特に好きなのが『嫉妬』です。この小説の主人公を敢えて挙げるならば、「妻が他の男と戯れることに嫉妬する夫」になるでしょうが、実際はこの夫は小説の中には登場しません。語り手であるのは確かなのですが、「視点」としてしか登場しないのです。ですから、この男性が妻とその浮気相手に抱く「嫉妬」という感情も、男性の内面的告白によって吐露されるのではなく、「視点の移動」によってのみ示されるのです。この発想と、その発想を実現しているテクニックには舌を巻きます。

この『嫉妬』は単行本が絶版になっているので、古本屋で手に入れるしかないですが、他の作品『迷路のなかで』、『覗くひと』などは講談社学芸文庫から出ていますし、最近は河出文庫から『快楽の館』が発売になりました。フランスのヌーヴォー・ロマンを思いっきり堪能したい方はぜひ!!
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