都営地下鉄三田線の前身となる都営地下鉄6号線のルーツは1957(昭和32)年に告示された東京都市計画高速鉄道網の5号線大手町~下板橋間です。5号線は営団地下鉄(現・東京メトロ)東西線ですので、最初は東西線の支線という扱いだったことになります。この計画のまま開通すると、車両は国鉄と同じ規格の20m4扉車である営団5000系で走っていたことになりますね。
しかし1962(昭和37)年の告示で5号線と切り離されて6号線として答申し、東京都が西馬込~志村(現・高島平)間の路線として計画。一部区間は1号線(現・浅草線)と重複するので、軌間を1,435mm軌間とし、車両も18m3扉としています。
1964(昭和39)年には東京都が泉岳寺~志村(現・高島平)間の路線として免許を取得しましたが、この時点で東急池上線と相互乗り入れするために、池上線旧桐ヶ谷と泉岳寺の間に路線を建設し、6号線の列車は旗の台から東急田園都市線(一部は現・大井町線)の長津田まで乗り入れる計画とされました。同時に上板橋から東武東上線と相互乗り入れする計画となり、軌間を1,067mmに変更。車両の規格と東武に併せて20m4扉とするとともに保安機器も東武の規格に併せました。
その結果1号線との乗り入れができなくなり、泉岳寺~西馬込間は1号線に変更。1号線と6号線が共用する予定だった車庫は1号線専用となり、6号線用として志村検車場を設置することになりました。
その後東武は上板橋駅に直通設備を設置する余裕がないということで、大和町(現・和光市)~志村間の支線を建設する計画に変更。
ところが1965(昭和40)年に、東急は11号線(現・半蔵門線)、東武は8号線(現・有楽町線)と相互直する方針に変更。都営6号線の乗り入れ計画は消滅してしまいました。
結局乗り入れ相手がないまま1968(昭和43)年12月27日に巣鴨~志村間が開業。
その一方、1968(昭和43)年の都市交通審議会答申第10号で、6号線の路線は大宮(現・さいたま市)西部から志村~三田を経て、清正公前(現・白銀高輪)、横浜市の港北ニュータウンに改められています。1971(昭和46)年には中山までの延伸も計画されましたが、1985(昭和60)年に目黒止まりとして東急目蒲線(現・目黒線)と相互乗り入れすることになりました。
北側区間に関しては1972(昭和47)年12月21日に高島平~三園町(現・西高島平)間の免許を東武から譲り受け、1976(昭和51)年5月6日に高島平~西高島平間が開業しました。
現在の終点である西高島平駅は本来は東武東上線支線の三園駅のはずだったわけです。

西高島平駅が開業する前に、東武は路線建設を放棄しているのですが、北側延伸の計画があったため、終端部はこんな感じになっています。

計画ではここから右に進路を変えて北上して新大宮バイパスの間を走ることになっていたようです。
でも、1985(昭和60)年にこの計画も消滅。予定された用地には首都高速が開通しました。

行き場を失った三田線。もし東武東上線と乗り入れしていた場合は、このあたりに分岐点ができていたのでしょうか?


今では東京メトロ有楽町線、副都心線が乗り入れてくる和光市駅。都心への所要時間と利便性を考えると東武の決断も致し方ないことですが、その結果交通不便な場所が残ったのも事実ですね。

そんなわけでまっすぐも右にも行けなくなった高架橋。ちょっと悲哀を感じますね。
