上田電鉄の前身は上田交通でしたが、2005(平成17)年に上田交通から子会社として独立しました。現在の主力は元東急1000系だった上田電鉄1000系で、2008(平成20)年8月1日から営業運転を開始。全部で4編成が活躍しています。

(クハ1104・大学前~下之郷・2012年7月16日)
1000系はVVVFインバータ制御、ボルスタレス台車などの装備はそのままですが、パンタグラフの増設やワンマン化などの上田電鉄の事情に合わせた改造がなされています。
別所線のほぼ中間となる中ノ郷には車庫が設置されています。ここには1000系以前の主力だった7200系、7253編成が留置されていました。7200系も元東急7200系で1993(平成5)年から上田交通の主力として活躍していました。

(クハ7553・下之郷・2012年7月18日)
この編成と7255編成は丸窓を模したデザインとされて「まるまどりーむ号」と呼ばれています。この時は7253編成しか見当たりませんでしたが、7255編成は車庫の中にでもいたのでしょうか? また車庫の奧には7200系以前に活躍した元東急5200系クハ5251が倉庫代わりに使用されています。こちらはイベントの際には表に出てきますが、普段は遠目に見える程度。ちなみに相方のモハ5201は生まれ故郷の東急車輌製造の敷地内で保管されましたが、今年の4月1日よりJR東日本傘下の総合車両製作所(J-TREC)に社名変更されています。

(デハ5201・東急車輌製造・2012年2月26日)
なお同敷地内では元上田電鉄7200系、モハ7252とモハ7254が入れ換え車として活躍中。また7251編成は豊橋鉄道に譲渡されました。
上田交通別所線の勾配は下之郷からきつくなり始め、終点の別所温泉近くでは40‰の急勾配となります。そして終点の別所温泉には丸窓電車、モハ5252が保存されています。

(モハ5252/クハ1104・別所温泉・2012年7月16日)
丸窓電車モハ5250形は上田交通の前身である上田丸子電鉄の、そのまた前身となる上田温泉電軌が1928(昭和3)年に製造したデナ200形で、日本車両製造が3両製造しました。
その後1950(昭和25)年にモハ5250形に改番されて活躍しましたが、1986(昭和61)年10月1日に直流600Vを1,500Vへ昇圧した際に引退。モハ5251とモハ5252はさよなら運転の後、現在の場所に自力回送して、そのまま静態保存されました。

(モハ5252+モハ5251・別所温泉)
その後モハ5251は上田市のさくら国際高等学校に無償譲渡され、2011(平成23)年4月16日に陸送され、現在はモハ5252のみがこの場所に保存されています。

(モハ5252・別所温泉・2012年7月16日)
残ったもう1両のモハ5253は、引退後上田駅構内で保管されていましたが、上田駅を高架化する際に中塩田駅の留置線に移動しました。そして2005(平成17)年に長野計器がこの車両を譲り受け、現在も保存されています。

(モハ5253・長野計器・2012年7月16日)
この長野計器のすぐ目の前は1963(昭和38)年まで上田交通西丸子線が走っていたそうです。西丸子線の痕跡はほとんど残っていないそうなのですが、下之郷に西丸子線のホームが残っています。

(下之郷・2012年7月16日)
また別所線上田原からは青木線も分岐していましたが、1938(昭和13)年に廃止されています。
西丸子線は上田温泉電軌によって建設されましたが、終点の西丸子駅がある、丸子町には上田東駅から丸子町駅まで伸びる丸子鉄道が走っていて、こちらの方がメインルートとなっていました。というのも丸子鉄道は丸子町の製糸業者が中心となって開業させているという経緯もあり、貨物輸送も盛んだったからです。
丸子鉄道は1943(昭和18)年に上田電鉄と合併して上田丸子電鉄となりましたが、貨物輸送がトラックに移ると経営が悪化。そして信越本線の複線化用地を提供する形で1969(昭和44)年4月20日に廃止されました。
この上田丸子電鉄丸子線で活躍した電気機関車、ED25 1は現在も丸子町で保存されています。

(ED25 1・丸子文化会館・2012年7月16日)
ED25 1は定格出力298.4kWの小型凸型電機で、宇部電気鉄道デキ11として1937(昭和12)年に日本鉄道自動車工業が製造しました。
宇部電気鉄道は宇部鉄道と合併したのち1943(昭和18)年に国有化され、1952(昭和27)年にED25 1に改番されました。その後は昇圧によってこの機関車は転々とすることになり、富山港線を経て1961(昭和36)年に丸子線に入線。丸子線廃止後は別所線で貨物を牽引していましたが、やがて貨物営業も廃止され、最後は別所線の昇圧で廃車となりましたが、丸子町に寄贈されました。
上田交通にはもう一路線真田傍陽線がありました。1927(昭和2)~1928(昭和3)年に上田電軌が建設し、上田~真田間と本原~傍陽間で運転していましたが、1972(昭和47)年に廃止されました。
廃線跡の一部は上田城址公園を貫いている遊歩道となったほか、一部トンネルや橋脚などが残っています。

(伊勢山付近・2011年9月10日)
上田交通はある意味ネタの宝庫でもあるのですが、まだまだ見落としている場所がたくさんあるので、またゆっくりと見に行きたいと思っています。