【ち】鎮守府(ちんじゅふ) ;佐世保の旅③ | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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吾輩の辞書には「不毛」という文字しかない!

特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

鎮守府・・・

① 古代に陸奥国に置かれた蝦夷経営のための軍政府。

奈良時代には多賀城(宮城県多賀城市)に置かれ、平安時代には胆沢城(岩手県奥州市)に移された。

② 大日本帝国海軍の根拠地として艦隊後方を統轄した機関。

所管海軍区の防御および警備をつかさどり、海軍策源地の機能を統轄した。

横須賀、呉、佐世保、舞鶴に置かれた。

 

 

 

 

 

10月13日(金)~10月16日(月)に佐世保に行ってきました。

 

初日の13日・・・

前回記事の海上自衛隊佐世保資料館(セイルタワー)から出たのは17時・・・

もう時刻的にどこかの施設を訪れることはできなさそうな感じでしたが・・・

 

 

 

セイルタワーから東へ向かって数分のところにある佐世保市民文化ホールへ寄ってみました。

コチラ・・・現在は市民文化ホールとして使用されていますが・・・

実は、旧海軍佐世保鎮守府凱旋記念館です。

第一次世界大戦における佐世保鎮守府所属艦船の武勲を讃えるために大正12年(1923年)に建てられたものです。

レトロモダンな素敵な外観ですよね。

戦後は米海軍がダンスホールや映画館として使用したそうですが、昭和52年(1977年)に返還されたそうです。

 

こちらの文化ホールですが、17時過ぎも入場可能でしたので、中に入らせてもらいました。

中の造りも雰囲気を損なわないような感じになっています。

 

ここの文化ホールで、旧凱旋記念館周辺の鎮守府・海軍 関連スポット マップを入手しまして、そちらを元に散策してみることにしました。

 

 

 

実は、海上自衛隊佐世保資料館も旧佐世保水交社です。

水交社は、海軍士官の懇談や外国艦隊士官の接待、艦隊乗組士官の宿泊場として設けられた施設です。

明治26年(1893年)に設立、明治31年に現在地に移転新築され、初めは木造の建物だったものが、のちに鉄筋コンクリート2階建てに建て替えられたそうです。

現在の資料館は、水交社の建物を一部として利用するような形で立っています。

 

 

 

さて、旧凱旋記念館の南側が医療センターですが、センターの北東端・・・旧凱旋記念館から歩いて1分程度のところにこんな碑がありました。

旧海軍下士官兵集会場跡とのことです。

兵や下士官の休養施設があったところで、海仁会集会所とも呼ばれたそうです。

戦後は米軍の司令部が置かれ、CP(Command Post)ビルと呼ばれたそうです。

 

 

 

医療センターの東側を流れる佐世保川沿いに南下していきますと・・・

 

佐世保公園という公園が現れます。

医療センターの南側に位置し、南北に細長い公園です。

 

この公園の北のエリアは旧佐世保鎮守府長官官舎跡だったようで、それを示す看板が設置されていました。

公園内には、築山や石灯籠など官舎の庭園の痕跡が見られます。

 

なお、公園内には旧佐世保海兵団跡との看板もありました。

海兵団とは、主に下士官や水兵の徴募と教育訓練、軍港警備、乗組員の補充を行う組織として、各鎮守府に設置されたものらしいです。

この佐世保公園と隣接するニミッツパークのほとんどは、海兵団の営庭で、いろいろな訓練が行われいたようです。

看板の近くに古い小屋がありますが、海兵団の火薬庫だったものらしいです。

 

 

 

その後、公園の南東に架かる平瀬橋という橋へ向かいました。

 

橋の南側に現在は使用されていない鉄道の橋脚が残っています。

九州鉄道が佐世保駅と佐世保鎮守府の間に敷設した貨物線跡になるそうです。

戦後は、朝鮮戦争の勃発により米軍に接収され、線路を延長し燃料輸送のために使用されたそうです。

ジョスコー線(ジョスコー:Japan Oil Storage Co.の略称)と呼ばれていたそうです。

 

 

 

他にも、鎮守府・海軍 関連スポットはまだあったようですが・・・

遅い時間になってきましたので、初日の観光はこれで終了としました。

 

 

佐世保公園のニャンコ司令長官・副長官にお別れを告げ、宿泊先へと・・・。