井伊直政(1561~1602)・・・
戦国時代~江戸初期の武将。
今川氏真に仕えていた父 直親が謀反容疑で殺されたため各地を放浪。
天正3年(1575年)徳川家康の小姓となり、以後、家康旗本軍の有力武将となり、政務にも重要な役割を果たした。
徳川四天王の一人に数えられる。
上野国 高崎藩(もとは箕輪藩)の初代藩主、後に近江国 佐和山藩(のちの彦根藩)の初代藩主。
GWの4月30日に高崎市へ日帰り旅行し、高崎城址と高崎城下町の寺社を回りました。
いろいろとテーマを分けてご紹介しましたが・・・
最後は初代高崎藩主 井伊直政に関する寺社をご紹介します。
まぁ、関係あるといっても・・・
もともと別なところにあった寺社を現在の地に移したというのがほとんどですが・・・。
高崎城址の乾櫓から北に10分程度歩いたところ・・・
髙﨑神社があります。
社伝では、和田義盛の一族の義国の子 和田正信が、相模国三浦郡の熊野権現を和田城内に勧請し、熊野神社としたのがはじまりのようです。
井伊直正が和田城の跡に高崎城を築城する際、この熊野神社を現在の場所に移し、高崎総鎮守としたそうです。
明治40年(1907年)以降、境内末社12社と高崎市内の36社を合併し、「髙﨑神社」と改称したそうです。
ここの狛犬にも、ちょっと癒されます。
髙﨑神社のすぐ北には、恵徳寺がります。
天正年間に井伊直政が伯母 宗貞尼の菩提のために箕輪日向峰に建てた恵徳院が始まりのようです。
直政が高崎城に移った際に、城北の榎森という場所に移し、恵徳寺と改めたそうです。
なお、直政の次に高崎藩主となった酒井家次によって現在の場所に移されたそうです。
高崎駅から北東へ5分程度歩いたところに安国寺があります。
お寺と言ってもコンクリート造りになっており、ビルの脇の通路をぐるっと通って、いきなり2階に・・・近代的な建物になっています。
安国寺自体は足利尊氏・直義が全国に造らせたもので、もともとは箕輪の西明屋にあったそうですが、井伊直政が居城を高崎城に移転した際にこちらに移転させてます。
なお、明治初期には一時的に群馬県庁がここに置かれたそうです。
前回記事の頼政神社の南東100m程度のところに龍広寺があります。
井伊直政は箕輪城に配された際に、白庵和尚を招いて城の鬼門鎮護として龍門寺を建てています。
その後、直政が高崎城に移ると、白庵和尚を招いて高崎城下に龍広寺を建てたそうです。
ちなみに、高崎の地名は、直政に相談された白庵和尚がつけたもので、そのこともあって龍広寺の山号は高崎山となっています(下の画像を見ますと、山門の額に「高崎山」となってます)。
なお、境内墓地の一角に旧陸軍墓地があり、ロシア人兵士の墓があるようです。
日露戦争の時の捕虜が市内の寺院に収容されていたそうで、ここにも10人抑留され、3人が葬られているそうです。
日露戦争時に日本国内にロシア将兵捕虜は7万人以上が収容されたそうで、当時の日本は戦時国際法を遵守して捕虜を厚遇してたようです。
とりあえず、高崎市で観光したところは以上です。
本当は箕輪城や古墳など、まだまだ回りたい所はありましたが・・・
鉄道・バス・徒歩の中心の日帰り観光だと、なかなか回れないですね。