<覇道の男→王道の男>天皇陵編(33)総社二子山古墳 ;群馬日帰り旅行⑪ | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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吾輩の辞書には「不毛」という文字しかない!

特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

儒教では、武力による治世を「覇道」と呼びますが、ここは「制覇の道」という勝手な意味で使ってます。


そんな「制覇の道」・・・天皇陵を中心に皇族の陵墓をできるだけ回ってみる天皇陵も実施中です。


(ちなみに皇室の場合、「覇道」ではなく「王道」の象徴のような存在ですので、天皇陵編のタイトルは<王道の男>です)

 

 

 

10月末の土曜日、群馬へ日帰り旅行してきました。

前回、前々回の記事では、総社古墳群の古墳の3基について書きましたが・・・

今回は、この旅で行った総社古墳群の残りの一つ・・・

総社二子山古墳についてご紹介します。

総社二子山古墳は皇室の陵墓に指定されていませんが・・・

明治初期に、豊城入彦命(崇神天皇皇子)の陵墓として当古墳を申請して認められ、ら墓掌・墓丁がおかれたことがあったそうです。

ただすぐに陵墓指定解除となってしまったようです。

 

 

総社二子山古墳は、調査により6世紀後半の築造と考えられています。

全長90mのこの地域では最後の前方後円墳になるそうです。

ちなみに、豊城入彦命は第10代 崇神天皇の皇子、第11代 垂仁天皇異母兄で、上毛野君(古代上野国の豪族)・下毛野君(古代下野国の豪族)の始祖とされています。

一方、古墳の築造時期である6世紀後半は、第29代 欽明天皇~第33代 推古天皇の時代ですので・・・まぁ、やっぱり豊城入彦命のお墓ではないですよね。

 

 

ここの古墳は民家に囲まれ、周辺の道路に私道が入り組んでいたりしまして・・・

前回の記事の愛宕山古墳から歩いてきますと、ひじょうにややこしいです。

周辺は民家と言いましたが、かつては周濠の地割りも残っていたそうです。

 

 

一番最初に示した画像・・・

古墳の北西隅ですが、入り口となっていますので、登ってみました。

なお、墳丘の中心軸は東西方向で、前方部が西側、後円部が東側になるそうです。

 

 

前方部の頂部への階段です。

約8mの高さになるそうです。

 

 

前方部から後円部を眺めた景色。

 

 

逆に、後円部から前方部を眺めた景色です。

前方部がやや高いようです。

 

 

何でも・・・

ここの古墳には、石室が後円部・前方部の2か所に造られているそうで、いずれも全長8mを超え、県内でも大規模の石室になるようです。

ただ、周辺の道の事情や、帰りの時間のこともあり、石室の場所は探しませんでした。

 

また、ここから頭椎太刀など多くの遺物が発見され、一部は東京国立博物館に保管されているそうです。

 

 

 

とりあえず、群馬の日帰り観光はこちらにて終えました。

 

 

 

 

 

<参拝した歴代天皇陵>
神武(1)、綏靖(2)、安寧(3)、懿徳(4)、孝元(8)、開化(9)、垂仁(11)、成務(13)、仲哀(14)、応神(15)、仁徳(16)、履中(17)、反正(18)、允恭(19)、雄略(21)、清寧(22)、仁賢(24)、継体(26)、安閑(27)、宣化(28)、欽明(29)、天智(38)、天武(40)、持統(41)、文武(42)、孝謙(46)、称徳(48)、桓武(50)、光孝(58)、宇多(59)、醍醐(60)、朱雀(61)、村上(62)、圓融(64)、一条(66)、後朱雀(69)、後冷泉(70)、後三条(71)、白河(72)、堀河(73)、鳥羽(74)、崇徳(75)、近衛(76)、後白河(77)、二条(78)、安徳(81)、仲恭(85)、後堀河(86)、四条(87)、後嵯峨(88)、後深草(89)、亀山(90)、伏見(92)、後伏見(93)、後二条(94)、長慶(98)、光明(北2)、崇光(北3)、後光厳(北4)、後圓融(北5)、後小松(北6/100)、称光(101)、後土御門(103)、後柏原(104)、後奈良(105)、正親町(106)、後陽成(107)、後水尾(108)、明正(109)、後光明(110)、後西(111)、霊元(112)、東山(113)、中御門(114)、桜町(115)、桃園(116)、後桜町(117)、後桃園(118)、光格(119)、仁孝(120)、孝明(121)、明治(122)、大正(123)、昭和(124)