【ほ】宝塔山古墳(ほうとうざんこふん) ;群馬日帰り旅行⑨ | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

公辞苑(ハムじえん)【第二版】

吾輩の辞書には「不毛」という文字しかない!

特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

宝塔山古墳・・・

総社古墳群を構成する1基。

墳丘全長60mの大型方墳で、7世紀半ばに造られたと考えらる。

墳丘は三段築成、斜面には葺石が葺かれ、周濠を伴っていたと考えられる。

 

 

 

10月末の土曜日、群馬へ日帰り旅行してきました。

上野国分寺跡、上野国分尼寺跡、山王廃寺跡と古代寺院遺跡を見た後・・・

山王廃寺跡から最寄りの群馬総社駅の間に、古墳が4基ほどあるので、そちらを見て群馬日帰り旅行を終了することにしました。

 

 

 

まず向かったのは、山王廃寺跡から北東に1km程度のところにある宝塔山古墳です。

 

 

宝塔山古墳が前橋市総社歴史資料館の近くにあることは、Google Mapで知っていましたので、そちらを目印に向かいました。

史料館と道挟んで、西にある住宅街を入っていきますと・・・

ありました宝塔山古墳です!

方墳の南東隅になります。

 

 

そのまま道なりに西へ進み、南西隅を見てみますと・・・

何やら登り口がありましたので、登ってみました。

 

 

すると、石室への入り口のようです。

 

 

中に入れるようでしたので、入ってみました。

後で調べてみますと、羨道・前室・玄室に分かれていたようです。

前室がよく分からなかったのですが・・・

こうやって画像で見てみますと、道だと思った奥の狭まったところが前室なんでしょうかね?

 

 

玄室中央には家型石棺が置かれていました。

後で調べたところによりますと、脚部が格狭間(ごうざま;壇の脚の仕口を補強するために隅付けた材が、装飾的な曲線形に発達したもの)に加工されており、仏教文化の影響を受けているそうです。

古墳を築きながらも、仏教にも触れている・・・7世紀の宗教事情を考える上で面白いかもしれません。

 

 

なお、石室の上方に仏塔のようなものが見えました。

明らかに後世のものですね。

なお、ここから墳丘の頂上に上がれないようでしたので、近寄りませんでした。

このタイプはお寺の住職さんのお墓であるパターンが多いです。

 

 

古墳の西側を見ますと、お寺がありました。

光巌寺というお寺でした。

秋元長朝(戦国~江戸初期の武将、上野国総社藩主)が母の菩提寺として造営したお寺のようです。

先ほどの仏塔は、ここのお寺と関係あるんでしょうね。

 

 

お寺の駐車場がちょうど古墳の北側にありましたので、そちらから全貌を見てみました。

 

 

よく見ますと、北東隅に頂上部へ登れる階段がありました。

 

 

上がってみますと、頭頂部の風景はこんな感じでした。

手前に、秋元家累代の墓との説明板がありました。

 

 

いろいろ考えますと、宝塔山古墳は光巌寺の境内だったか、管理下にあったんでしょうね。