新田義貞・・・
鎌倉末期・南北朝時代の武将。
1333年に鎌倉を攻めて、鎌倉幕府を滅ぼしてます。
後醍醐天皇の建武の新政で重用されますが、足利尊氏と対立。
尊氏が後醍醐天皇のもとを離れ、南北朝の戦いが始まると、南朝の中心の一人として各地に転戦。
越前の藤島の戦で戦死。
ゴールデンウィークは旅行の手配がつかず、埼玉県にある実家を根城に、埼玉のあちこちをチョコチョコと・・・
埼玉の黄金週間(ゴールデンウィーク)・・・略してタマ〇ンウィークです。
5月2日(木・休)は所沢に行ってきました。
所沢には鎌倉街道が通っていまして、新田義貞が鎌倉に攻める際の進撃路になっています。
その鎌倉攻めまでの進撃ルートを見てみますと、次のような感じです。
新田荘(太田市)で挙兵→(途中、関東が参集・合流)→小手指ヶ原の戦い(所沢市)→久米川の戦い(所沢市・東村山市)→分倍河原の戦い(府中市)→関戸の戦い(多摩市)→鎌倉攻略
という訳で、二つの古戦場が所沢とその近辺にあるとのことで、そちらを行ってみました。
まず、久米川の戦いの古戦場近辺へ・・・
所沢駅から西武園駅行きのバスを乗り、勢揃橋停留所、将軍塚停留所、水天宮下停留所といった停留所を降りますと、古戦場関連スポットに行くことができます。
私は、まず水天宮下という停留所から鳩峯八幡神社へ向かいました。
延喜21年(921年)創建の神社です。
本殿は見世棚造と呼ばれる室町時代の様式らしいです。
ちなみに停留所の名になっている水天宮はここの八幡神社の摂社で、隣接した敷地にあります。
この近くに陣を布いた義貞が社前の松に兜を掛け、境内に鎧を置いて戦勝祈願を行ったという逸話があります。
上の画像で、石柵に囲まれたのが「兜掛け松」です。
水天宮下停留所から所沢駅へ向かって二つ目の将軍塚停留所へ。
停留所の南の小山があります。
この小山の上に塚があり、それが将軍塚です。
小手指ヶ原の戦いで勢いに乗った義貞がここに陣を布いたそうで、山麓の幕府軍と対峙し、その後に開戦となったそうです。
塚自体は古墳もしくは富士塚との説もあるようですが、ここの小山で指揮をとったということなんでしょうね。
ちなみに、将軍塚のある小山の麓には久米川古戦場碑があります。
久米川の戦いは新田軍の優勢に進み、幕府軍は分倍河原まで撤退しています。
地図を見ていただきますと、この碑は東京都東村山市にあります。
将軍塚のある小山自体が所沢と東村山をまたがっていますが、主戦場は東村山になるようです。
次に、将軍塚停留所から一つ所沢駅へ向かった勢揃橋停留所へ。
その名の通り勢揃橋という橋があります。
その名の通りに義貞が軍をそろえた場所のようです。
ちょうどバスが来たため、上手く画像が撮れませんでしたが、小さな橋でした。
一度、所沢駅に戻り、小手指駅へ向かい・・・
次は、小手指ヶ原の戦いの古戦場に向かいました。
小手指駅から早稲田大学行きのバスに乗り、誓詞橋停留所を降りると古戦場近くになります。
まず、その誓詞橋です。
現在は大きな道が走っているので、橋の幅自体は広いですが・・・
距離としては短い橋です。
見づらいかもしれませんが、誓詞橋との石碑が近くにありました。
義貞が軍に忠誠を誓わせ、盟約をかわした場所とされます。
そこから南に方面に行ったところに小手指ヶ原古戦場碑が建っています。
新田軍と幕府軍は遭遇戦の形で戦い、布陣する余裕はなかったそうで、戦闘は30回を越える激戦だったそうです。
両者とも軍を一旦引きますが、幕府軍が撤退した場所が久米川だったようです。
古戦場碑周辺の畑の中の小道を歩いて行きますと、小さな塚があります。
白旗塚と呼ばれるもので、義貞が源氏の白旗を掲げ、本陣を置いた場所と言われています。
回りは平らな土地ですので、木さえなければこの小高い塚から遠方まで見ることができたと思います。
戦場の指揮を執り、存在感をアピールするのには良い場所だと思いました。
とりあえず、所沢の新田義貞スポットを回ったわけですが・・・
鎌倉幕府を倒すまでの新田義貞は、ひじょうに輝いており・・・
その進撃ルート上に義貞にちなんだスポット、伝説が多いようです。
ただ、その後の彼は足利尊氏のライバル役を担わされますが、実際のところ歴史的には引き立て役で終わってしまった感があります。
<オマケ>
自分の実家のある狭山市にも、新田義貞が馬をつないだ松「駒つなぎの松」を有する八幡神社があるので、行ってみたのですが・・・
以前には、その松の場所を示すプレートがあったはずなんですが・・・
なくなってました。
こんな感じであったはずなんですけど・・・
何故撤去してしまったのでしょうか?