儒教では、武力による治世を「覇道」と呼びますが、ここは「制覇の道」という勝手な意味で使ってます。
そんな「制覇の道」・・・
天皇陵をできるだけ回ってみる天皇陵編も実施中です。
(ちなみに皇室の場合、「覇道」ではなく「王道」の象徴のような存在ですので、天皇陵編のタイトルは<王道の男>です)
昨年11月~12月に鎌倉へ3回の日帰り旅行を敢行しました。
そのうちの11月25日に陵墓を一つご参拝してきました。
すでに、記事にしてますが・・・
改めて、このシリーズの方にもアップしていきたいと思います。
北鎌倉駅から鎌倉街道沿いに南東に少々行ったところ・・・
東慶寺というお寺があります。
境内を奥に進んでいきますと、イワタバコという多年草が生えている岩壁の道を歩いて行きますと・・・
後醍醐天皇皇女 用堂女王墓との碑があり、石段が上に続いています。
柵に囲まれたエリアに、やぐらがあり・・・
そのやぐらに更に柵があり、その奥にお墓があります。
それが用堂女王のお墓です。
後醍醐天皇皇女 用堂女王・・・
東慶寺は鎌倉尼五山の第二位で、尼寺ですが、そこの第五世が用堂尼(用堂女王)です。
用堂尼は護良親王の菩提を弔うために入寺されたと言われてるそうです。
護良親王は、後醍醐天皇の皇子で、鎌倉幕府討幕のため転戦した武闘派の皇子です。
討幕後は、建武政権において、足利尊氏や後醍醐天皇の寵姫 阿野廉子と反目し、鎌倉に送付されてしまいます。
鎌倉では足利直義の監視下に置かれ、中先代の乱のどさくさに紛れて暗殺されてしまってます。
ちなみに、護良親王の土の牢やお墓のある鎌倉二階堂は、江戸時代に東慶寺の寺領となり、土の牢や墓、霊牌の安置された理智光寺等も管理されるようになったそうです。
用堂女王(用堂尼)墓の周りには、歴代住持の墓があります。
もともとは歴代住持のお墓の一つだったと思われますが・・・
現在の用堂女王墓は宮内庁の管轄になっています。
<参拝した歴代天皇陵>
神武(1)、綏靖(2)、安寧(3)、懿徳(4)、孝元(8)、開化(9)、垂仁(11)、成務(13)、仲哀(14)、応神(15)、仁徳(16)、履中(17)、反正(18)、允恭(19)、雄略(21)、清寧(22)、仁賢(24)、継体(26)、安閑(27)、宣化(28)、欽明(29)、天智(38)、天武(40)、持統(41)、文武(42)、孝謙(46)、称徳(48)、桓武(50)、醍醐(60)、朱雀(61)、村上(62)、圓融(64)、後朱雀(69)、後冷泉(70)、後三条(71)、崇徳(75)、後白河(77)、二条(78)、安徳(81)、仲恭(85)、後堀河(86)、四条(87)、後嵯峨(88)、亀山(90)、後二条(94)、長慶(98)、後水尾(108)、明正(109)、後光明(110)、後西(111)、霊元(112)、東山(113)、中御門(114)、桜町(115)、桃園(116)、後桜町(117)、後桃園(118)、光格(119)、仁孝(120)、孝明(121)、明治(122)、大正(123)、昭和(124)