【そ】蘇我氏(そがし);~橿原・飛鳥の旅⑥ | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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2016年12月23日~25日の三連休で、橿原・飛鳥へと旅に行ってきました。

 

二日目の午後は、レンタサイクルで明日香村を回りました。

その明日香村で回ったところを前回の続きとしてご紹介です。

今回は、回ってきたところのうち蘇我氏に関するスポットを紹介します。

 

 

蘇我氏・・・

古代の豪族です。

日本史の教科書では、仏教定着を志した蘇我稲目や、推古朝時代に聖徳太子と共に政治に関与した蘇我馬子や、乙巳の変で滅んだ蘇我蝦夷・入鹿が有名ですね。

百済系の渡来人との関係が深く、稲目の父の名が高麗(駒;こま)であったり、さらにその父が韓子であったりと半島との関連性を連想させます。

韓子の父は満智(まち)と言いますが、百済の政治家である木満致(もくまち)という人物が蘇我満智と同一人物との説もあります。

但し、記紀では蘇我氏の祖は武内宿禰(景行天皇~仁徳天皇の5代に仕えた家臣)とされています。

 

 

甘樫丘

雷丘の南に位置する丘です。

皇極天皇(第35代;第37代の斉明天皇と同一人物)3年11月に、蝦夷・入鹿親子がこの地に邸宅を並べて建ててます。

それぞれの邸宅を「宮門(みかど)」と呼んでいたといわれてます。

近年、この丘の麓にその時代の建物跡が発見され、蘇我氏の邸宅ではないかとの話もあるそうです。

この丘の頂上からは、飛鳥の地が一望でき、眺めがよいです。

また、畝傍山、耳成山、天香久山の大和三山が同時に見ることができます。

(三山が同時に見えますが、自分のカメラでは同時に移せませんでした・・・。)

周辺が遠望できる丘陵なので、蘇我氏がここを抑えたのは、その権力をアピールする場だったのかもしれませんし、戦略的価値もあったのかもしれません。

 

 

飛鳥寺

馬子が発願し、推古天皇(第33代)4年に創建された日本最初のお寺です。

蘇我氏の氏寺になります。

法興寺、元興寺とも呼ばれてるそうです。

御本尊は釈迦如来像で、飛鳥大仏とも呼ばれてます。

仏師 鞍作鳥により造られた日本最古の仏像といわれてます。

見ての通り、撮影OKです。

お寺の西門からちょっと先へ行きますと、入鹿の首塚があります。

実は、その先に見えるのが甘樫丘になりますので、このお寺自体は甘樫丘の東に位置します。

当時のお寺の規模は知りませんが、お寺には多くの建物があるかと思いますので、ちょっとしたお城代わりにもなりうるかと思います。

そう考えると、飛鳥寺近くの甘樫丘を蘇我氏が抑えたのは大きな意味があったんだと思います。

 

伝飛鳥板蓋宮跡

飛鳥板蓋宮は皇極天皇の宮殿です。

飛鳥板蓋宮は、中大兄皇子・中臣鎌足らによって入鹿が暗殺された乙巳の変の舞台でもあります。

その宮殿があったと伝えられてる場所です。

実際には、飛鳥岡本宮(舒明天皇)、飛鳥板蓋宮(皇極天皇)、後飛鳥岡本宮(斉明天皇)、飛鳥浄御原宮(天武天皇・持統天皇)と4つの宮跡が重なって埋もれてるそうです。

 

 

石舞台古墳

もともとは土で覆われていたようですが、石室が剝き出しとなっってしまった古墳です。

有名な古墳で、飛鳥地方の人気スポットでもあります。

こちらの古墳は、馬子の墓であると考えられています。

その石室内に入ることも可能です。

内部に入ると、その石の組み方が強固であることが分ります。

長い期間、この剥き出しの石室が崩れてないことを考えますと、当時のテクノロジーの凄さを思い知らされます。

 

 

今回見た中で、蘇我氏と関係の深いスポットはこんな感じでした。