【ふ】藤原京(ふじわらきょう);~橿原・飛鳥の旅④ | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

公辞苑(ハムじえん)【第二版】

吾輩の辞書には「不毛」という文字しかない!

特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

2016年12月23日~25日の三連休で、橿原・飛鳥へと旅に行ってきました。

 

初日は徒歩にて、橿原市内にある4つの天皇陵と橿原神宮を回ってきました。

二日目は、レンタサイクルを活用し、橿原市内と明日香村を回ることに・・・

まずは、橿原市内にある残りの天皇陵を2つ回ったところまで書きましたが・・・

その続きです。

 

 

引き続き、橿原市内を回ることにしました。

まず本薬師寺跡に伺いました。

本薬師寺は、元々は「薬師寺」と呼ばれていたお寺で、奈良市の薬師寺の前身になります。

天武天皇(第40代)が皇后(後の持統天皇;第41代)の病気平癒を祈願し、建立されることとなったお寺です。

実際には天武天皇の頃に着工されてますが、文武天皇(第42代)の時に完成したようです。

その後、平城京遷都で薬師寺は西ノ京(平城京の右京と京外の西部)に移されますが、この場所もお寺として機能していて、本薬師寺と呼ばれようになったようです。

現在は礎石などが残っています。

当時は、その敷地はかなり大きかったんでしょうね。

 

 

次は、本薬師寺跡のから北東へ1km程度行ったところ・・・

藤原宮跡に行ってみました。

藤原宮は藤原京の中心となる内裏や大極殿のあった場所と考えられてます。

藤原京は、本来は新益京と呼ばれていたそうです。

藤原京以前の宮は、天皇が変わる度やイベントが起きる度に遷宮されてましたが・・・

この藤原京は、持統天皇(第41代)・文武天皇(第42代)・元明天皇(第43代)と三代の天皇に使用され、このあとに続く平城京や平安京の先駆けとなっています。

碁盤の目状に大路をつくった日本最初の都でもあります。

藤原京は約5km四方の大きさで、中心となる藤原宮は約1km四方の規模があったそうです。

先ほどの本薬師寺も藤原京の中に位置するようです。

藤原宮の建物の跡は、柱などで示されていました。

また、大極殿(朝廷の正殿)跡は壇が残っています。

藤原京(約5km四方)内に大和三山と呼ばれる畝傍山・耳成山・天香久山が取り込まれており・・・

この三山が藤原宮(約1km四方)を取り囲こんでいたようです。

ですから、藤原宮跡の場所からは・・・

畝傍山・・・

耳成山・・・

天香久山・・・

大和三山が綺麗に見えて、ひじょうに良かったです。

このちに宮城をつくったのも、何となく納得です。

 

 

と、旅の二日目の午前中に橿原市内の観光を終えまして、午後から明日香村を回ることにしました。

(* 藤原宮自体は橿原市内だけのようですが、藤原京は橿原市だけでなく明日香村にも及んでたようです。)

 

(続く)