前半の三連休に岐阜に行ってきました。
関ヶ原を中心に旅をするのがテーマでして・・・
二日目は一日をかけて関ヶ原を回ってきました。
内応・・・味方を裏切ってひそかに敵と通じること。内通。
今回は、内応軍の陣地・・・
西軍から東軍へと裏切った松尾山の小早川勢を中心とした軍勢の陣地を紹介していきます。
(南宮山の吉川も東軍に内応してますが、ここでは取り扱いません・・・と言うか、南宮山方面に行ってなくて・・・)
毎回毎回ですが関ヶ原の戦いの布陣は、下のリンクをご参考にしてください。
https://upload.wikimedia.org/wikipedia/ja/0/05/Sekigahara.png
松尾山は関ヶ原開戦前に西軍武将の伊藤盛正が布陣してましたが・・・
決戦の前日に小早川秀秋軍が伊藤軍を追い払って、松尾山に布陣してます。
動向の定かでない小早川軍に備えて、大谷吉継は赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治の軍を松尾山麓に配置しますが・・・
これら四武将も小早川軍の裏切りと同時に、西軍を裏切って大谷軍に攻め込んでます。
最終的に小早川秀秋、赤座直保、小川祐忠、朽木元綱、脇坂安治が西軍を裏切り、これが決定打となって東軍が勝利しますが・・・
事前に小早川は黒田長政を通じて工作を受けており、また脇坂が藤堂高虎を通じて工作を受けてました。
これに対し、赤座・小川・朽木は小早川・脇坂に連動してしかたなく裏切った形となり、もともと内通してたわけではなく、そういった意味では「内応」という表現は正確でないかもしれません。
以上が、松尾山近辺に布陣した裏切り者の動向ですが・・・
ここから、史跡として展示されてるものを見ていきたいと思います。
まずは、松尾山山麓にある脇坂安治陣跡です。

位置としては、東軍の最左翼の福島軍の左方(南西)で、西軍主力の最右翼の大谷軍の前面(南東)になります。
大谷軍と脇坂軍の間には、赤座、小川、朽木の三軍が位置しており、その後ろに小早川軍が控えてる状態で・・・脇坂は本来西軍ですので、西軍最右翼は脇坂になります。
脇坂は事前に藤堂を通じて内応を明らかにしていたので、戦後に所領安堵・・・さらに数年後に加増されますが・・・
赤座、小川、朽木については、所領没収、改易、減封などの憂き目にあってます。
今も、陣跡の石碑があるのは脇坂だけだし・・・裏切り得ですね。
さて、内応軍メインの小早川秀秋陣跡・・・松尾山です。
小早川は松尾山の山頂を中心に布陣したようですが、その陣跡を見学するのには・・・
山麓の駐車場から頂上まで約1.4kmのハイキング(ちょっとした山登り)をしなくてはいけません。

案内看板によると徒歩40分の道のり・・・けっこうな道のりになります。
画像を見ての通り、けっこうな道のりの途中に分かれ道があったりして・・・
行き止まりって・・・何で、そんなトラップをしかけるのよ・・・。
山頂に向かう途中に、神社なんかもあったのですが・・・

この神社をお参りしようと思うと、ほんのちょっとルートから外れ、高台を登らなくてはならず・・・
松尾山登山を考えると、無駄な体力は使いたくなく、スルーしました。
「徒歩40分はキツいなぁ」と思いつつ、25分程度歩いていたところ・・・

頂上が見えてきました。
徒歩40分とありましたが、健常男性なら30分程度で山頂に着くと思います。
ちょうど時期的に山桜が散った頃で、山頂近辺の登山路に花びらが落ちていて、キレイでした。
山頂はこんな感じとなっておりまして、土塁などあります。

実は、松尾山城と呼ばれる山城だったそうです。
南北朝時代頃から築かれ、戦国期にも使用されたようで、その跡をうまく活かして布陣したようです。
まさに、山頂の本陣は郭跡だったようです。

そういった郭の遺構の中に、秀秋陣跡の石碑が建っていました。
さて、この松尾山の山頂から主戦場の方を眺めてみると、こんな感じです。

主戦場全体がよく見えます。
そして、その戦場が遠くのもののようにも見えます。

上の画像は、松尾山から見た家康最後陣跡付近、奥に岡山(丸山)烽火場が見えますが・・・遠いです。

上は、奥に三成の笹尾山、手前に小西と宇喜多の寄る天満山・・・やはり遠いです。
実は、大谷軍のいる山も近いような気はしませんでした。
山城跡に布陣し、主戦場が遠く・・・ここから主戦場を見てると、なんか戦場が他人事のように見えます。
しかも、その主戦場が丸見えで・・・傍観してても良いような気もしますし、最後に有利な方に就けば それで良いのではないかという気になります。
小早川軍の行動が遅かったのも、なんか納得のいくような気がしてきました。
一般的に、徳川軍の鉄砲射撃を受け、秀秋がそれに恐怖して東軍へ寝返ることを決意したと言われますが・・・
山麓から1.4kmもの道のりを考えると、秀秋本陣自体は鉄砲の射程距離外にいたと思われますので、鉄砲に恐怖したとは思われません。
もともと秀秋は三成に対し好意をもっておらず、家康へ好意をもっており、西軍に加担する気はなかったとも言われてます。
そういった意味では、家康軍の鉄砲射撃は「参陣しろ!」との事前の取り決め合図だったのではないかと言う気もします。
まぁ、とにかく松尾山に登ってみると、通説として言われてる小早川軍の裏切り時の心境・経緯は的を得てないような気もしていきます。
さて、松尾山登山は苦労しましたが、下山はやや余裕が出てきまして・・・

行きにスルーした山之神神社にも寄ってみました。
まぁ、小さい祠だけでしたが・・・。
今回 回った関ヶ原の戦い関係のスポットは以上になります。
南宮山を中心とした西軍の傍観軍のスポットも回りたかったですが、時間がありませんでした。
また来る機会があったら、その時は南宮山中心に回りたいと思います。
南宮山も登山に近いらしいですけどね・・・。