【な】南部戦跡(なんぶせんせき);沖縄旅行(6) | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

今年初めの旅は・・・
一月の三連休で沖縄に行ってきました。

初日は首里を歩いて回ってきましたが・・・
二日目はレンタカーで、沖縄本島南部を回ってみました。



本島南部のドライブ前半は、沖縄戦南部戦跡を回ってきました。

沖縄戦は1945年の3月下旬から8月までの戦いになるそうです(組織的な戦闘はし6月23日に終了)。
米軍の上陸地点から首里城の司令部までの首里以北を中部戦線と呼び・・・
司令部が首里陥落を目前に南部に撤退したため、多くの住民が戦闘に巻き込まれてしまった、首里以南の戦いを南部戦線と呼んでいるそうです。



まずは豊見城市にある旧海軍司令部壕へ。

地上には海軍戦没者慰霊之がありますが・・・
近くの資料館から日本海軍の司令部が置かれた壕に入れます。

1944年に日本海軍設営隊によって掘られた司令部壕で、当時は450mほどあったそうです(現在300mほど復元されてます)。
持久戦を続けるための陣地で、4000人ほどの兵士が収容されていたそうです。

上は幕僚室ですが、幕僚が手榴弾で最期を遂げた時の破片痕が残っていました。


その後は、さらに南の糸満市へ・・・
まずは、ひめゆりの塔へ立ち寄ってみました。

沖縄師範学校女子部・沖縄県立第一高等女学校の生徒・教師で編成された ひめゆり学徒隊・・・
看護要員として沖縄陸軍病院へ配属され、看護等の任務に従事しますが・・・
米軍の間近に迫る1945年6月18日に解散命令が出されます。
解散命令時期には、陸軍病院は撤退し、分散して地下壕に潜んでいたそうで、その地下壕から出ることはほとんど死を意味しててるのですが・・・
解散命令のため壕外の戦場を逃げ惑うことになったものや、絶望して命を絶つものが出たり・・・多くの学徒が命を失うという悲劇があったそうです。

塔があるのは、沖縄陸軍病院第三外科の地下壕跡になり、その地下壕が見えます。
資料館が併設されているので、そこで戦場の実態というものを知ることができるかと思います。


ひめゆりの塔から南方の海岸の方へ車を走らせると魂魄之塔があります。

沖縄県で一番最初に建てられた慰霊の塔になるそうです。
沖縄戦最後の激戦地区で、日本軍も住民も米軍に追い詰められて逃げ場が無くし、この地で陸海空からの激しい攻撃を受けて倒れいったそうです。

平和を祈るように、塔のすぐそばにブッダゆかりの菩提樹の分け樹が植樹された菩提樹苑があります。
ダライ・ラマ14世も来訪されたようです。


魂魄之塔から西に行ったところにある喜屋武岬へも行ってみました。

ここにも平和の塔がありますが・・・

この一帯も沖縄戦の激戦地で、米軍から逃げ場を失った人々がここから身を投げたという歴史があるそうです。


その後、ひめゆりの塔から東に向かったところにある平和記念公園へ。

本島南部の沖縄戦終焉の地である糸満市摩文仁の丘陵を南に望み、南東側に険しく美しい海岸線を眺望できる台地にある公園です。
沖縄戦などで亡くなられたすべての人々の氏名を刻んだ平和の礎などがあります。

時間的なこともあり、園内の全体を見ませんでしたが・・・
園内には資料館や慰霊碑など多くのものがあるようです。
もう少し時間をかけて見たかったところです。



沖縄本島南部のドライブ旅行は続きますが・・・
南部戦跡めぐりはここにて終了です。