【か】河井継之助(かわいつぐのすけ);長岡プチ旅行(4) | 公辞苑(ハムじえん)【第二版】

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特にテーマもなく、徒然なるままに書き綴ってます。

長岡プチ旅行の二日目(最終日)・・・

悠久山というところの桜を見て、その後に駅近くの桜を見て・・・

その後、河井継之助と関係のあるとこに行ってみました。



河井継之助は、長岡を代表する英雄でして・・・

前回少々書いた戊辰戦争の北越戦争時の長岡藩家老です。

司馬遼太郎の「峠」という作品は、この継之助を取り扱った作品です。

読んだことありませんが・・・。



明治新政府は旧幕府勢力の武力討伐を開始し、鳥羽伏見の戦いを皮切りに戊辰戦争がはじまるわけですが・・・

長岡藩はどちらにも従わず、武装中立の路線を目指します。

戦争回避のため、越後に侵攻してきた政府軍に直談判するため、河井は小地谷に向かい、そこで会談をするのですが・・・

政府軍の軍監の岩村精一郎に一蹴され(岩村は高慢だったらしいです)、長岡藩は旧幕府方の奥羽列藩同盟に加わることになったそうです。

こうして、北越戦争が始まったわけです。


当時、日本に三門しかなかったガトリング砲(機関砲)を長岡藩は二門所有しているなど、かなり近代装備を導入してたこともあり、政府軍と互角に渡り合うのですが・・・

最終的には、兵力の差で長岡藩は敗れています。

河井は戦いの最中 負傷し、会津へ逃れる途上で傷がもとで亡くなったそうです。





とりあえず、河井継之助の紹介は、ここまでとしまして・・・

長岡駅の東側を線路沿いに北上して行きますと、栄涼寺というお寺があります。



ここは長岡藩主の牧野氏の菩提寺の一つになります。

そして、河井継之助のお墓があるお寺でもあります。


長岡藩は北越戦争で城下が8割焼失・・・

政府に付かなかったため石高を減らされてます。

そのため、開戦に踏み切った河井を恨むものが多く、墓に乱暴をはたらく人が多かったそうです。

現在は、現地のヒーローとして尊敬されてますが、そんなこともあったようです。



ちなみに、ここのお寺の側の桜もきれいでした。



この後、線路の西側にある河井継之助記念館というミュージアムに向かうため、お寺近くの踏切を渡ったところ、面白いものが・・・



線路の西側すぐのところに、融雪装置が長岡発祥であることを記した記念碑がありました。

でも、特許を取っていなかったので、だいぶ後に同じようなものを考えた人に持ってかれたようです。

まぁ、河井継之助に関係ありませんが・・・。




さて、線路の西側へ渡って しばらく歩き、南に向かっていきますと、河井継之助記念館というミュージアムがあります。


ここは河井継之助邸跡に当たるようです。

建物の前後に、それを示す碑が建ってました。




館内は河井継之助の生涯をパネルで展示、また所縁の品々が展示されていました。

ガトリング砲の模型も展示されてますよ。



司馬遼太郎の「峠」を読んでみようかな・・・。