
「あま市甚目寺会館」の3階に入っていました。
階段を上がります。



ふー 到着。

↓展示室へ向かいます。

(↓通路の展示品も面白かった。)

(↑踏車(フミグルマ)とか、懐かしー。私が子供の頃はこんな農機具もまだ現役だったわー。)
おお、甚目寺境内のジオラマだー。(「三千六僧房古図による模型」との事。/ここに表わされているのは室町時代の伽藍及び周辺の様子、ですって。)


↑って 全然撮れてなかった。。。(肝心の南大門が写ってないーーー)
↓甚目寺の文化財。

↑阿吽の仁王像は「南大門」に安置されていたもの。(県の指定文化財)
↓今は南大門が修理工事中だから、でしょうか 館内で間近に見る事ができましたよ。

↑阿形、
↓吽形。

↓「甚目寺観音の歴史」

↑「甚目寺観音は飛鳥時代(寺伝:推古天皇5年=西暦597年)に建立されたと伝えられていますが、はっきりとした創建年は分かっていません。しかし平成2年(1990)及び同4年に行われた本堂建替えにともなう発掘調査では、遺物より少なくとも7世紀後半には、堂宇が存在していたことが確認されました。
創建より甚目(はだめ)氏の私寺として存在した甚目寺観音は、鎌倉時代になると両者の関係が薄れ、地縁によって維持されるようになりました。またこの時代一遍上人の絵巻物『一遍聖絵(ヒジリエ)(国宝)』を通じ、尾張の霊場としてその名は全国に知られたようです。
戦国時代末期には、歴代の尾張の支配者より200貫の寺領(←補足/「200貫」は 知行・年貢・寄進 などで 当時の資料によく見られる数値。地方の寺院の七堂伽藍を維持するのに必要な経費も ざっくり200貫 だったようです) を受け、そして文禄4年(1595)清須城主となった福島正則(マサノリ)(あま市出身)は、仁王像を奉納しています。江戸時代、寺領は豊臣時代の300石が維持され、尾張三十三所観音および尾張四観音のひとつとして多くの参詣者が同寺を訪れました。
現在でも節分会においては、恵方の年ともなれば 境内を埋め尽くす人々で賑わいます。」
(尾張の節分や恵方については 名古屋コンシェルジュのこちらの頁をご覧ください⇒*)
↓「甚目寺図絵」。(描かれているのは室町末期の風俗ですが 写されたのは江戸初期から中期~ らしい)

↓こちらは「江戸時代の甚目寺町内村絵図」。(1826年作成)

館内には他にも色々な展示物がありました。

↓素朴なお神輿。(左_祠の前にクロスさせた鍬が飾られています。/ 右の神輿の上には米俵。)

↓この「下萱津(シモカヤヅ)駆馬(カクルマ)/←地名+小字名」という表示板の下に立つ 美々しく飾り立てられた馬は「オマント(「御馬頭」或いは「馬の塔」)」という献馬儀礼(祭)に出された馬。尚この馬のこともオマントと呼んだらしい。 甚目寺町内では四頭のオマントが飼育されていたそうです。オマントは地元だけでなく 離れた地域の祭の草競馬にも出場して祭を盛り上げていたといい 最盛期には各地から60頭もの馬達が集結する~ 事もあったよう。


↑この馬は「海部郡(アマグン)下萱津駆馬(シモカヤヅカクルマ)」のオマントなんですね? (後ろの大きな旗は行列の時に掲げられる~ などしたのかしら?)
時間が無く 駆け足見学でしたが、甚目寺町にチョッピリ詳しくなれ、たかな???(どうでしょう^^;) / 撮影6/30