津島市の津島神社 | おだわらぐらし

おだわらぐらし

縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
一杯見て 一杯歩いて 一杯味わいたいと思います

(ほぼ自分のための備忘録でございます。文字だらけなのをお許し下さい。)

天王川公園に続いては 津島神社へー。(津島市の津島神社は、全国の津島神社・天王社の総本社。/ 真鶴は岩地区の津島神社⇒ も こちらからの勧請~と聞きます。)


↑南の鳥居。
↓鳥居脇の案内板。


鳥居の先の左手に「居森社(イモリシャ)」という小社が建っていました。

鳥居の左手に「六社参り」の案内。

神社本殿と五つの境内社、合わせて六社の説明も載っていたので 写します_。

  「津島神社六社参り
 津島神社は、欽明天皇元年(540)に西国対馬(!)から須佐之男命が居森の地にご来臨されたのが始まりとされ、当初は「津島社」と呼ばれていました。
 その後仏教が伝来し、「神仏習合」と言う考えが生まれ、日本の神は仏の化身であるとされ、津島神社の御祭神は「牛頭天王(ゴヅテンノウ)となり、社名も「津島牛頭天王社」に変わり、明治の神仏分離まで続きました
 奈良時代「疫病」が起こり、平安時代には全国に広まりました。
 「疫病」は一つの集落が消滅するような大変怖い病であったので、当時の人々は「粗末に扱うと大きな祟りをもたらす強い神に守ってもらおう」と、牛頭天王信仰が起こり、津島神社の神職は「御師(オシ)」として全国(当時は琵琶湖の東岸から鎌倉辺り)各地の集落の有力者の家に泊まり、祈祷や神札を配り大神様のご利益を布教して廻り、現在では全国に三千社以上の御分霊社(町内社を含めると一万社とも)が有ると言われております
 古来より日本の神々は人と同じような人格を持つと言われ、荒魂(アラミタマ)・和魂(ニギミタマ)・幸魂(サチミタマ)・奇魂(クシミタマ)の四つの魂を持ち、これを併せ直霊(なおひ)と言い、荒魂は活動、和魂は調和、幸魂は幸福、奇魂は霊感を担うとされています。
 津島神社では創建以来、ご祭神「建速須佐之男命」を祀った社を全て残し、現在本殿を始め、荒魂社・柏樹社・和魂社・居森社・疹社の六社を境内でお祀り申し上げており、全国的にも大変珍しく、皆様方には是非六社をお参りいただき、大神様の御神徳をいただかれます事をお勧めします。」


↑正しくはは①の本社からお参りすべきなのかもしれませんが・・・ お許し頂いて、まずは目の前の ⑤居森社と ⑥疹の社 へ向かいます。

↓鳥居の向こうに左右に室を持つ「三間一戸(サンケンイッコ)」の通り抜け形の門。(社のすぐ手前だから「割拝殿」になるのかなー?)

↓門の先に 祠が三つ並んでいました。

↓真中が 須佐之男命幸魂(サチミタマ)を祀る⑤「摂社 居森社」。(左右は末社。/ 向かって左は天照大神を祀る「大日孁社(オオヒルメシャ)」、右は須佐之男命和魂(ニギミタマ)を祀る⑥「疹社(ハシカノヤシロ))

↓⑤居森社の説明板。

↑写します。
「摂社 居森社(愛知県指定文化財)
御社殿 本殿木造流造 銅板葺
    天正19年(1591)豊臣秀吉母、大政所(なか1513-1592)の寄進にて再建
    宝暦9年(1759)建造(再建と建造の順番、気になるー)
御祭神 須佐之男命幸御魂(スサノオノミコトサキミタマ)
御神徳 無病息災
由緒  社伝によると、欽明天皇元年(540)に大神(=須佐之男命)がこの地に初めて来臨され、神船を高津の湊の森に寄せて奉ると、蘇民将来の裔孫と云う老女が、霊鳩の託によって森の中に居え奉った事により「居森社」と云われる。」(神様が乗って来た船を森の中に据えた_んでしょうか?)

_ともあれ、この居森社は 津島神社の創建の伝承に深く関係する神社、なんですね? 又建築の方面からいうと この屋根は津島神社独特の古い形式を残している~ のだそう。

⑥の 和魂を祀る疹社の説明板に 昔の疱瘡の快癒祈願の方法が載っていました。興味深く思ったので写します_。↓

↑「由緒 / 古来より、桟俵(サンダワラ/米俵の蓋)に一合徳利の酒と赤飯を載せ、赤い御幣を挿して、三本のわら縄で境内の木に吊り下げて、子供の疹や疱瘡の軽症を祈願する信仰が行われていた。

その北に「菅原社」。

祀られているのはもちろん 学問の神-菅原道真=天神様。

↓絵馬掛けには 合格を祈願する絵馬が沢山_。

↓参道の先の祠。

(↑正保年間に京都の北野天満宮より勧請したという天神様。元は津島神社神主 氷室氏の邸宅内にあったものを 明治34年にこの地に移した~ といいます。)

その右隣はお稲荷さん、、、かな?(狛狐も 祭神を記した札もありませんでしたが 赤い鳥居が連なり、祠の梁には向き合う狐と思しき姿の木彫が見えましたので。)




菅原社の北には 祖霊社がありました。



通り抜け式の拝殿の向こうに本殿。




祖霊社の東側には手水舎があり、

水盤の上に吊るされた風鈴が 涼やかな音を奏でていました。



_ここまで南の参道の西側を見てきましたが、東側にも見るべき建屋がありました。

↓神社参集所。


(↑市の観光協会も入っているようですよ?)
↓その北の 職員駐車場の中にも個性的な建屋がありましたが・・・これは何でしょうね?/ 調べきれませんでした_。


今はセメント塗りになっている参道側には 元々は「建て増し分」があったようですね・・・。(一階屋根をはがした痕跡がありますから)

ではいよいよ(?)神社社殿の方へ向かいましょう。


↑石段左脇にあったのは 楼門や祈祷殿の修繕に対する寄付のお願い_。
↓右側に「津島神社のいわれ」。

写します。
「御祭神  建速(タケハヤ)須佐之男命(スサノオノミコト)
津島神社由緒
 当神社は古くより津島牛頭天王社(ゴヅテンノウシャ)ともう押し上げ、現在でも「津島さん」「天王さん」として尾張地方をはじめ中部・関東・東北地方の人々にも崇敬されております。
 全国の天王社の総本社であり。約3000社のご分霊社があります。
一、 と鎮座は、欽明天皇元年(西暦540年)であります。
一、 ご祭神は、建速須佐之男命 相殿(アイドノ)に大穴牟遅命(オオナムチノミコト)大国主命様をお祀りしています。
一、 ご神徳は、疫病・災厄除・授福の神様
一、 ご例祭は、六月十五日
一、 尾張津島天王祭 七月第四土曜日・日曜日
 尚、詳細につきましては、社頭にて「しるべ」をお頒 ちします。
    津島神社々務所 」
(へー、例大祭と 天王祭は 別 なんですねー)
↓パネルのMAP部分。


↓南門を潜ります。/ すぐその先に 本殿を隠す「蕃塀(バンペイ)」。

↓蕃塀の向こうは~

からり と開けていました。

↓正面に 六社参りでは①になる_直霊が祀られている (神殿部から飛び出したように縦長の)拝殿。


(↑写真では「縦長」な感じがわからないのでグーグルMAPの航空写真を貼ります。)

こちらの建屋は 慶長10年(1605)清須城城主(家康四男-松平忠吉)の健康祈願の為、室政子の方(←井伊直政の長女)が寄進したもので 国の重文だそうです。(残念ながら松平忠吉は 1607年に28歳の若さで亡くなっています_)



あちこちに「木瓜紋」。(織田家と同じ、と思ってしまいましたが、実は逆で 津島神社を氏神として信仰していた織田家が 神社の神紋を家紋に取り入れた~ のだそうな。)


 - ご挨拶 -

続いてはあの立派な楼門を見に行きましょう。



↑楼門がある、という事は_ こちら 東側が正門だったんですね?(天王川もかつては神社の東門前を流れていたようですし_)
↓東側から見た門。(提灯には菊の紋。祭神が天皇家に繋がる神だからですね?)

↓説明板。

↑「重要文化財。津島神社は昔から「天王さま」として親しまれ、疫病をおいはらう神様として全国の人々から信じられてきました。この楼門は天正年間に豊臣秀吉が寄附したといわれており、造りは三間一戸(サンケンコッコ)の入母屋造(イリモヤヅクリ)で丹塗(ニヌリ)で、屋根は檜皮葺(ヒワダブキ)となっています。また、神社の敷地にあった神宮寺の門でもありました。」

↓楼門の前には太鼓橋。



↑橋の下はちゃーんと(?)川が流れていましたよ?↓


↓東の鳥居から見た楼門。(右手に社号標)

こちら側が元々の 正しいお参り口、なんですね?
(東向きの楼門と 南向きの拝殿の 向きは90度違っているので、参拝者の目は 楼門の先には拝殿を見る事はできません。楼門の先に 蕃塀 が置かれていないのは「必要ないから」なのでしょう_)


境内に戻り、 摂社 末社 を訪ねます。


↓六社参りの③ 摂社-柏樹社(カシワギノヤシロ)-祭神 須佐之男命奇御魂。 「天平元年(757)信託により須佐之男命を居森の地より此処に移したと伝えられ、社の後に古柏樹一株が生えていたところよりこの名がある。元は柏宮・柏社と云う。」


↓右、六社参りの④ 摂社-和御魂社(ニギミタマノヤシロ)-祭神御祭神 建速須佐之男命和御魂。御神徳、無病息災。
元は蘇民将来を祀る「蘇民社」と称され、姥が森(現海部郡佐織町町方新田)に鎮座されていたのを瑞垣内に移したと伝う。
 正月四日に祭礼を斎行し、本社拝殿前に「茅の輪」を立て一年の無病息災を願い輪くぐりを行う。
 明治維新までは社領地の姥が森「姥社」に、祭礼後「蘇民社」にお供えされた焼き団子をお供えしていた
 「姥社」は、古伝に「素戔嗚尊来臨の時、此処にて老嫗(オウナ)神託を蒙りしゆゑ社を建つ」とあり、又昔此の所に岩窟があり、蘇民将来の末裔が住んでいたとも伝わる。」


↓左、末社-橋守社(ハシモリノヤシロ)。右、末社-愛宕社(アタゴノヤシロ)。


↓左、

見つけられなかった六社参り②の「摂社 荒御魂社(アラミタマノヤシロ)は本殿の東、 授与所裏手にあったもよう・・・

↑残念、訪ね損ねましたー。

↑多分この右手から奥へ入るべきだったのね。
↓見るべきだった ②荒御魂社(アラミタマノヤシロ)(摂社)荒魂。

↑「元は八岐大蛇(ヤマタノオロチ)の霊を祀る「蛇毒神社」と称した 屋根は津島神社独特の古い形式を残す 宝暦9年(1759)造営」


↓「天王祭」についての説明パネル。

↓美しいお祭りだなあー。できたらいつか実際に見てみたいものですが・・・。

↓昔の川筋がわかる図。(左が北)


↑説明文も写します。
「天王祭は、旧暦六月朔日より八月の晦日まで(現在は七月第四土曜日を中心)の三ヶ月に亘る「神葭神事(ミヨシシンジ)」と、土曜日に行われる巻藁船(マキワラブネ)の宵祭、翌日曜日には模様替えした車楽船(ダンジリブネ)の朝祭の「川祭」に分けられます。
 神葭神事は、御本殿深くに一年間お祀りし、災いを背負う「真の神葭」を一年毎更新し、ご祭神建速須佐之男命の御神意の高揚を図り、疫病・厄難の消除を願う「神送りの神事」で、江戸時代まで天王川が木曽川の支流であった時は、神葭が流れ着いた処では丁重にお祀りし、賑やかに神葭行事が行われ、遠く、伊勢志摩や三河・遠州に漂着した記録が残されています
 川祭は、氏子が大神様のご神徳に感謝し、御心を慰め奉る行事で起源は不詳ですが、現存する書物は、長禄3年(1459)が一番古く、それ以前から行われていた事は間違い無く、600年近くの歴史があり、織田信長・豊臣秀吉・尾張藩主も幾度か見学した記録が残され、特に豊臣秀吉は京伏見に桃山城を築城の折り、城下に津島神社を移築し、淀川で川祭を行いたいと熱望されたが、当時の神社と町方衆は、「神卜(シンボク)により御神意に違わず。」と申し出を断った書状が残されています
 「尾張津島天王祭」は昭和55年に国指定重要無形民俗文化財に指定され、平成28年にユネスコ無形文化遺産に登録されました。」




↓東門付近にあった津島の「散策マップ」。


↑へー お寺が沢山あるんだー。(「寺密度東海ナンバーワン」らしい^^;)

 - - - - -

今回のお参りでは 神社そのものだけでなく 周辺地域の歴史や 地域に伝わる伝承も 色々知る事ができました。 とても面白かったです。 / 津島 又訪ねてみたい町、です。