
↓展望広場からは丹沢の山並みが一望できます。

広場の東の縁に植えられた桜(河津桜)は おずおずと(?)咲き始めていました。



こんな案内板もあった。


↑「本日のローラーすべり台 滑れます」/ (「滑れません」の日もある、という事ね?)
(ここのローラーすべり台がどんな物か 興味のある方はこちらをどうぞ^^;⇒*)
広場の東の諏訪神社へ行ってみましょう。

↓参道脇に石が立っている。

↑左、馬頭観世音。上の題字部分は AIによると「鬼鹿毛(おにかげ)」
らしいです。/ 右は何でしょう?
↓鳥居。

↓額には「諏訪神社」の文字。

鳥居を潜って左手に手水舎。(水は出ていませんでした・・・)/ 余談ながら2009年に訪ねた時 この手水舎は右手側にあったんですよ。⇒* でも2011年に撮った写真では左(今の位置)に移っている・・・。どんな事情で動かしたのでしょうね?

↓手水舎の柱に 神社の由緒書が取り付けられていました。

写します_。
「諏訪神社
〇鎮座地
小田原市府川293番地
他に神社所有地が三か所在ることから、諏訪大社同様二社四宮が存在していた。【地図及び登記簿で確認できる】。他の社殿跡地三か所の諸大地は、
・小田原市府川2番地
・小田原市府川359番地
・小田原市府川557番地
別に庚申塚が小田原市府川498番地に在る。
〇御祭神
建御名方神(タケミナカタノカミ)(大国主と高志沼河比売神(コシノニナカワヒメノカミ)の御子神)
八坂刀売神(ヤサカトメノカミ)(女神/妃)
〇例大祭
上社は3月27日・下社は9月27日
現在は3月下旬の日曜日
〇社殿様式
八幡造(残念なことに、現在は、屋根の飾り物(千木(チギ)と「堅魚木(カツオギ)」が欠落している。)
〇造営
造営の起源は明確ではなくが、武田勝頼に仕えていた先人が武田家滅亡の跡、府川に移住し里武士となり造営されたと伝えられる。推定では、天正時代(1573~1592)または、江戸時代までは、長野県の諏訪大社と同様上社と下社が存在していたと推測される。
大正12年9月1日の関東大震災で倒壊したため大正15年再建する。
社殿天井には龍の墨絵が描かれていたが、現在は痕跡も薄れてしまった。
(補足/ 武田信玄は 諏訪の大神官(大祝)である諏訪頼重を滅ぼし、その娘-諏訪御料人を躑躅ヶ崎館に迎えて側室とします。諏訪御料人から生まれたのが勝頼。勝頼は諏訪家を継いで 諏訪四郎勝頼 を名乗ります。が、兄の廃嫡後 信玄の後継の座に座り、父の死後武田家を継いだ~ んですね。// しかしそうでしたか府川は勝頼に仕えていた人が移り住んだ地でしたかー。移住者がこの地に 先の代から信仰する神の社を建て それは地名になった。 「諏訪の原」は今も 市の自治会名として現役、です。)
〇神楽殿
近年まで現存していたが、今はその姿を観ることができない。
〇神社と競馬
参道が広いのは、戦前ここで競馬を行なっていた。
競馬の始まりは定かではないがこの馬場を「鉄砲馬場」と云う。
いざ戦争になると農民や馬まで駆り出されたので訓練目的で行われ、後年は農民の楽しみとして開催されていたのではないかと思われる。
令和2年1月 諏訪神社氏子会 」
↑なかなか興味深い内容!
社に向かいます。


↑左手前に「御神木」。(何の木でしょうね?)
↓一対の石灯籠 その向こうに向き合う狛犬。


↑以前の社の屋根には 千木と堅魚木が載っていたというから 多分檜皮(ヒワダ)で葺かれていたのでしょうね?
↓右元左末の注連縄。

↓注連縄の奥に 鈴と扁額。


-ご挨拶-
社殿の周りを一回りします。


平入の拝殿の後ろに 平入の神殿部。

(↑↓もしかしたら見えているのは覆い屋で 中に本殿の社があるタイプ、かも?)

↓拝殿西側。

↓表に戻ってきました。


おいとましましょう。
「ありがとうございました。」
フラワーガーデンに戻ります。

(トンネルの上に渡された歩道を歩いております。)

(↓左のセンターライン付きの道は車道。歩道を道なりに進むと フラワーガーデン、です。)


↓振り返ってみたところ_。

↑右が諏訪神社への道、です。(なぜか案内板に神社の事が書かれてませんー)/ 左へ進むとトンネルの上を通って 公園の北斜面に出ます。
~こうして念入りにもう一度フラワーガーデンの梅園を通って、駐車場へ向かった私達、だったのでしたー^^)


_この後はお昼を食べに 大雄山駅近くの「きよ竹食堂」へ~♪ / つづく