亭主は「仮宿橋」へも行ったようです。(仮宿はこのあたりの「小字(コアザ)」名。)

(↑ヤマシタから250m程道なりに進んだ先を 右_川側に少し入ったところ。)

人ひとりが やっと通れる(すれ違い困難な) 素朴な木製の人道橋。



↓川上側。

↓川下側。

渡り切って 左岸から撮っています。


通りからは見えない場所にあるため 「知ってる人しか渡れない橋」かも?ですが、ノスタルジックで イイカンジ^^)
ブーランジェリー山下までおいでになったなら もうチョイっと足を延ばして 渡ってみられませ。(オススメは桜の季節、でございますよ🌸)
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↓参考までに 私が渡った時の絵。
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<おまけ>
亭主、ここからの帰りは真っすぐ二宮駅の方へ向かっています。

(↑左が 七織さんから_というか長寿橋から来た道。右が 二宮駅へ向かう道、です。)
↓少し行くと左手に「みちる愛児園」の園舎。

_と その前にこんな説明板が立っていたそうです。

↑「軽便鉄道 二宮駅跡」! (「少し前まで駅舎跡も知っている人にはそうとわかる状態だった」と聞いた事がありますが、そうかー ここだったんだー。)

↑写します。
「馬車鉄道・軽便鉄道・湘南軌道の沿革
通称「けいべん」は、明治39(1906)年に湘南馬車鉄道株式会社が吾妻村(現在二宮町二宮)~井ノ口村(現在中井町井ノ口)~秦野町(現在秦野市本町三丁目)間の道路9.6キロメートルに幅二尺五寸(76.2センチメートル)の軌道を敷設した馬車鉄道の運行が始まりとなっています。
馬車鉄道は、一頭の馬が小さな客車、または貨車を引くものでしたが、大正2(1913)年には動力を旨から無煙炭燃料汽動車(蒸気機関)に代え、社名も湘南軽便鉄道株式会社とし、運転を開始しました。当時の沿線は、わら葺屋根の民家がほとんどで火の粉の飛散を防ぐため、独自に開発したラッキョウ型の煙突を付けた機関車が、客車や貨車を牽引していました。
二宮駅からの乗客は、大山への参拝者が多く、シーズンになると駅は活気にあふれ、貨物ホームには葉たばこ、落花生、雑穀、肥料などがうず高く積まれていました。特に二宮特産の落花生は、全国に名が知られていました。
二宮駅は、東海道線と軽便鉄道の乗換地点で、乗継切符が販売されていました。
石碑(←どこ?)の北側には、湘南軌道株式会社本社「二宮駅」の上屋が、今でも当時の面影をのこしています。二宮には、このほか中里停留所、一色停留所がありました。
その後、軽便鉄道は、大正7(1918)年には湘南軌道株式会社へ軌道特許権が譲渡され、大正10(1921)年に秦野自動車株式会社が秦野~二宮間の営業を開始、大正12(1923)年の関東大震災による軌道の損害、昭和2(1927)年の小田急開通などにより鉄道の経営が厳しくなり、昭和8(1933)年に旅客運輸を、昭和10(1935)年には軌道前線の営業を休止し、昭和12(1937)年に軌道運輸事業を廃止しました。
明治、大正、昭和の時代を走り抜けた「けいべん」の歴史は100年の時を経て、今も人々の胸の中に生き続けています。私たちは今、この地点に立ち、当時、勇姿に走っていた「けいべん」思いを馳せ、後世に歴史を継承します。
軽便鉄道100周年記念
秦野市・中井町・二宮町 軽便鉄道歴史継承事業実行委員会 平成18(2006)年」
この後亭主は道なりに歩いて_


(↑「むーにゃん」も撮ってた!)


↑二宮駅から電車に乗って小田原に帰ってきたのでした_。
そして、戻ってから「よー歩いたで」と私に自慢してました^^)))/ おしまい。