大磯の大隈重信(オオクマシゲノブ)別邸 | おだわらぐらし

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(シーン抜け、 で つづき)

去年の10月に修復工事が終わり 公開が再開されていた 大磯の「大隈重信別邸」「陸奥宗光別邸跡」に (今頃ですが) 行ってみました。⇒PDF

↑門に「明治記念大磯邸園」と記されたプレート。
↓実はこの名称は こんな広いエリアをさしているんですね・・・。公開されているのはまだ東半分、だけ。
 
↓参考までに「工事中」だった時の絵。



旧大隈重信別邸」から見学していきましょう。

旧大隈重信別邸は いつ建てられたか詳しくはわからないものの 購入の年である「明治30年(1897)以前に建築されたもの」である事は確か。(因みに大磯では_明治18年(1885)に日本初の海水浴場が開かれ、明治20年(1887)には大磯駅が開設されています。/ 尚 別邸を購入した明治30年当時、大隈さんは「外務大臣」で 翌年には「総理大臣」になっています。)

↓玄関前に置かれていたパネル。

↓大隈重信別邸見取り図。

(↑上と下の図で 東西南北が異なるのはわかりにくいなあー・・・)

玄関前には屋根がついていて「車寄せ」になっていました。


入館します。


模型があった。
↓元々は茅葺屋根だったんだ。

↓ボタンを押すと 屋根部分が む~ん と上に上がり 室内を見せてくれます。


↓現在の建屋。


(↑こちらも ボタンを押すと屋根が持ち上がりまーす。)

座敷の 南から東へ回る 回廊風の広く長い 畳敷きの「広縁」。ガラス戸がはまり 縁側というよりは テラス の雰囲気。



(もっともこの場所_、購入「当初」は「南・東とも幅4尺(約120cm)と現在より少し狭い板敷の縁側」で、「縁側の庭側は雨戸のみ」だったそう。大隈さんは 購入後に「ガラス障子を新たに設け」た~ と説明板にあります。/ 大隈さんが使われてた頃の広縁の様子は 今とは少し違ったかもしれませんね?)

東の「主室」。(16畳)





西の「次の間」。(10畳)

二つの座敷は ぶちぬきにして「大広間」として使われていたそうです。


広間の 廊下をはさんだ北側は台所だったそうです。

台所の模型。/ ただしこれは この大磯の別邸ではなく 早稲田にあった本邸の方の写真から起こしたもの、とか。明治35年(1902)当時の台所ですが すでにガスが導入されています!(村井弦斎の『食道楽』の挿絵にも描かれていますが 本当にスゴイ。)



大磯別邸の台所の様子も知りたいと思いましたが、残念。台所があった場所は「スタッフオンリー」のエリアになっていました・・・。

台所の東、廊下の北側に 「田」の字型に 和室群があり 資料展示コーナーになっていました。





(この建屋は 明治30年に大隈重信が別荘として購入していますが、明治34年には足尾銅山で財をなした古河(フルカワ)家に継承されているんですね。)


その先に_
広間のある棟とは廊下が繋がりながら 独立した「離れ」的な棟がありました。


↑西側に 松のある小庭を挟んで 広間のある棟が見えます。
↓この棟は 西の六畳の「次の間」(写真-億)と 東の九畳の「神代の間」(写真-手前)で構成されています。


↓「神代の間の」説明板。/「神代の間」の名の由来は「神代杉(ジンダイスギ)」がふんだんに使われていた事による、とか。



ここは九畳のこの部屋は大隈さんの「書斎」だったそうです。

さすが~ な 素晴らしい別邸ですね。

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前庭に出て 改めて拝見。


(↑因みに、資料を見ると_ 大隈さんが購入した時分には建屋の南西_ この写真ではクリーム色の壁になっている所の前に玄関が造られていたようですね。)
↓「広縁」部分。

その向こうが 書斎だった「神代の間」があった棟。





_と こんなのが「旧大隈重信別邸」なのでした。

続いて 隣の「旧陸奥宗光別邸跡」にも行ってみましょう。


<+>
建屋の南 海側には 松林があります。
大隈さんは 家を求めると同時に 松の苗も沢山購入されているので 今ある松林は 大隈さんが「防砂」のために植えたもの と考えられる~ そうです。