
間中先生は 戦中は軍医として沖縄の宮古島の部隊に所属し、戦後は沖縄本島に作られた捕虜収容所で 捕虜でありながらのドクター という珍しい体験をなさってるんですね?
ググっていて知りましたが、
間中先生は今は久野にある曹洞宗のお寺 東泉院にお眠りでー
ここに「平和碑」というタイトルのオブジェもご奉納になってるそう。
という訳で お参りかたがたオブジェも拝見しようと お寺へ伺ってみました_。

(余談ながら門の手前に 参拝者用駐車場がありました・・・。私達諏訪の原の公園の駐車場に車を置いてテクテク歩いてきましたのに アラ^^;)
↓門の前に並ぶお地蔵様達_。



(↑あ、「六十六部供養塔」も混じっているようですね・・・)
↓その向かいの「寒念仏」塔。

↓門。

↓「東泉院」と書かれた板。

↓その右に「東泉院記」。

↑写します_。
「一、護国山と号し大永元年(1521)久野 総世寺(曹洞宗)第七世大休宗恵の開山。
一、本堂は延享二年(1745)庫裏は享和三年(1803)の建築で、山内は古禅林の面影を残し、閑寂な禅味が漂っている。
一、二十予富仙秀岳(文久三年-昭和十六年/1863-1941)は生涯詩禅一如の教(敬?)田を貫き蛇石集二巻を残す。
又墨跡、禅画等にも偉れ社会教育の先覚でもあった。
一、当寺では月例坐禅会、指月会(禅の読書会・月一回)、接心会、夏季大学、梅花講等を開催している。
一、十一月三日(文化の日)には、墨跡、美術品等の寺宝を展示し、一般に公開している。
一、境内に、細川石屋老子報恩碑、間中喜雄碑がある。
一、当寺出版物「禅のみち」「菩提樹の陰」等多数あり。
(住所/略) 東泉院」
門を潜ると_

↓正面に宝篋印塔(ホウキョウイントウ)。

その横に待合。

奥の銀杏の木の間に_


「そのオブジェ」はありました。


(↑左の板には「何のために死んだのか判らない人たちに捧ぐる碑/間中喜雄 平和碑/戦争の凶器が国々を侵すとき無数の無辜の人々がいたましくもその犠牲になって殺されてゆく」と記されています)


↑「戦争の・・・ ?」
すみません 読めません_「LocalWiki間中喜雄碑」によると↓
「戦争の/狂気が/国々を/侵すとき/無数の/無辜の/人々が/いたましくも/その犠牲に/なって/殺されてゆく/平成元年十一月/間中喜雄」だそうです。(そうか 横の説明板にはここに彫られた文字が写されていたんですね・・・)
↓こちらは オブジェの近くに立てられていた「九泉の地底より~」で始まる 「原爆の日にうたえる」という詩の刻まれた碑。

(これも全文は上のLocoWikiでお読みください。)
__ ただ 合掌。
本堂の方へ。



大棟に「東泉院」。


扉の両側に火灯窓。

扉の上には山号「護国山」。

(お賽銭箱はありませんでしたが、先にお参りなさった方達の100円玉が二枚 戸の縁に載っていましたので、私もそれに倣いました。)
本堂の右手に 唐破風を持つ入口がありました。



(↑正式なお玄関なのでしょうか?)
↓こちらは庫裏棟かなと思ったのですが_、

障子の上に「方丈」と書かれた板が掛かっていました。

↓入口脇には素朴な一木造りの立像が。

本堂南。

(この先の竹林の中に清らな墓所がありました_)
境内にはこんな石碑もありました。

↓「一寸木亀之助之碑」

大正11年に亡くなった一寸木亀之助さんの追悼碑だそうです。
↓「慈照 / 細川石屋(セキオク)老師報恩碑」

↓帽子をかぶる石造りの座像(閻魔様?)の横には_

↓「非思量 / 岸 秀岳和尚頌徳碑」。(明治時代にこのお寺を復興した富仙秀岳和尚を頌徳する碑のようですね)

↓「(中川)宋淵老師句碑 / 花の世の 花のやうなる 人ばかり」

↓これ・・・は?




↑円の中に歌が刻まれています。(読めませんが_)
あら、
間中先生のオブジェの向こうにー

なよやかに立つ・・・観音様?

女人像?

左腕に花・・・印と思しき指の形 やっぱり観音様?(どこかバリ島の女神様のようにも?)

わからず終い^^;)
ともかく、思いのほかに見どころ多く 美しいお寺でした。








_ありがとうございました。
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この後は北条幻庵の屋敷跡と伝わる場所へ 行ってみました。

つづく。