林芙美子記念館 | おだわらぐらし

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縁あって暮らす事になった相模の国 小田原
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墓参りの帰り~、

亭主が「林芙美子記念館に寄ってみよう」というので 何の予備知識もないまま 行ってみました。
(恥ずかしながら 林芙美子が中井に住んでいた事すら知りませんでしたよ・・・)

↑八の坂 七の坂 六 五 ・・・ と来て 
↓四の坂を上がったところが林邸(現・記念館)。



新宿区とは思えない(?)緑が多く静かな場所です。



↑ここが玄関。_ですが、記念館の入口はこの北、だそう。



↑かつての勝手口でしょうか?
↓裏、だというのにしっかりした石が敷かれています。(最初からこの造りなのかしら?)

↓左(南・家側)の塀に貼られたパネル。(図は下が北)


まるで二つの家を後からつないだかのような建屋・・・。/ 後からガイドさんの説明で知りましたが この家が建てられた時代は物資不足で 新築の家には30坪という制限が設けられていたそうで、 ここは 林芙美子 と 夫で画家の緑敏(マサハル/ロクビン/リョクビン)別名義で「二軒」建てた、との事。(尚 実際に住んだのは 夫婦の他 芙美子の母 そして 姪二人の五人。後にもう一人 養子の男の子が加わっています。)

いやー 芙美子さん、一種「貧しさを売り」にされた作家さんですが、後年は豊かにお暮らしだったのねー。/ パネルの右に載るご本人の「家をつくるにあたって」という文には その事に自分でも驚きながら嬉しく思っている様がうかがえます。(家に対する思い入れが強かった芙美子は 沢山建築に関する本を読み これ という大工の建てた家を見て回り~し、 最終的には 山口文象という建築家に設計を依頼しています_)

管理棟でチケットを求めると まずは南の、二つの家の間「中庭」に出る戸口を潜る~ のが定番ルートのようでしたが、

西の裏庭の方から来る方があったので そっちにも見所があるのかナ と行ってみました_。

そうしたら まあ、ちんまりとしながら 趣のある「好み」の空間がそこに。

↑軒下の小壁に太鼓張り(両面張り)にした障子。竹のスノコの奥は御手洗。
↓廊下の南の戸は低く、身をかがめなくては入れない造り。

↓芙美子の「書斎」だそうです。

窓際に机や火鉢を並べているので 狭そうに見えますが 実は六畳あります。

↑カーテンの代わりに雪見障子で明るさを調整していたようですね? 落ち着いた茶室 のようにも見えますが 元々は板張りの「納戸」として作られていたと言います。/ 尚、執筆中は万年床であった、そうな。

↓書斎の東は「書庫」。

~と言っても (この写真に写る)縁側から見えているのは角火鉢の置かれた「次の間」と紹介されている座敷。奥に鏡台があるのを覚えておいて下さいませ。(尚 右手の壁と見えるのは 据え置き型の押し入れ。)


↑北の縁から見た 南の「寝室」の東の窓。外側に手すりが付いています。(同じ造りの窓が 「次の間」の東側にもついていた、そうですが 後に窓部分が出入り口に作り直されたので 「建てた当初」の感じを偲ぶ事ができるのは この窓だけ、になっている そう。)

↓こちらが「書庫」。(正面奥にさっきの鏡台、が見えています。)/ 外から窓越しに撮っております。


改めて見る 建屋北。

書斎裏から見ると 東の建屋と続いた「広いお屋敷」の様。(というか実質そう。)


西建屋の その又西の 少し洋風の棟は 夫君のアトリエ。

(アトリエへは後で 南側から入っております。)

北側は斜面地ですが 林家の持ち分だったらしく、作家仲間-壺井栄から贈られたというオリーブの木が植えられたりしていました。(撮り忘れました・・・)

中庭へ抜ける戸口。

↑竹格子の向こうからが東の建屋。
↓東の建屋の北部分には台所、がありました。

↑勝手口脇にボイラー。風呂用かな?
↓シンク。


(↑スノコが懐かしい~)

一旦中庭に出てー

↓風呂場を覗く。

↑排水部分の掃除もしやすそうな いいお風呂! 浴槽は檜ですって。/ さっきのボイラーはやっぱりお風呂用だった みたい。
何というか とても「文化的」ですね。(『暮らしの手帖』の読者なんかとピッチが合いそう^^)

中庭からの 西の建屋への入口。/ 上でも打ちましたが 最初は手すりつきの出窓だった部分になります。


中庭側から見た「次の間」。(↑写っていませんが、左手前に鏡台がある、のです。)据え置き型の押し入れは 正の戸に「インド更紗」が貼ってあります。芙美子のお気に入りの布だった、との事。/ 箪笥の向こうの部屋が書斎。
↓南の「寝室」の床の間。

↓「寝室」の東側。

(↑元々はこの手すりが 北の間にもついていた、んですね?)

↓中庭には ヒネたザクロの木がありました。

芙美子はザクロが好きで、家ができて最初に植えた のがこのザクロなのだそうです。
↓前庭から見た南の「寝室」。



↑床に掛かっていたのは 大燈國師語録 三月旦上堂■...(読めません^^;)

「寝室」前に石の 灯籠_かと思いましたが「六地蔵塔」(別名-笠塔婆)。



(↑お地蔵さんの部分だけ石が違いますね? 元灯籠だったものに六地蔵を加えたのかな?)

「寝室」の西の 芙美子の「書斎」。


(↑裏から撮った写真と比べると 外の障子が「太鼓張り」である事が確認できます。)

敷地の一番西に建つ 緑敏さんの「アトリエ」。

手前で靴を脱いで 入館。



↑ああ、天井にも窓が設けられています。/いい仕事場ですね?
↓展示ケースの中に 可愛い綿入れ半纏。(新しそうだし 手前に井上ひさしの『太鼓たたいて笛ふいて』があるから 舞台で使われたもの、かな? 説明文ちゃんと読むのだった・・・)

左の軸には本人の署名のある「梅は匂ひよ 木立はいらぬ 人はこころよ 姿はいらぬ」という句。(隆達という江戸時代のお坊様の歌だそう。)
↓ピアノの上には『太鼓たたいて笛ふいて』の表紙にもなった 芙美子の自画像が掛かっていました。(上手くはないけれど 「自分」というものをしっかり持った絵、ですね?)


「アトリエ」の前には大谷石の「石蔵」がありました。


(↑んー?蔵は北において 陽当たりの良い南にアトリエを置けば良かったんじゃないの? いや 色々考えてこの造り なんだよね・・・)
↓蔵の中には 庭の草花の写真が展示されていました。


引き返します。


東の建屋を見ていきましょう。

↑「茶の間」 と紹介される部屋。真ん中は「掘りごたつ」になっているそうです。/台所の南になるので ここで食事をしたのでしょうね。
↓茶の間と言いながら 北には棚 東には床の間。/いざとなったら パ と客間にもできそうです。

(↑時に_この床柱前が芙美子の母 キクさんの定位置 だったそうですよ?)

↓キクさんの部屋だったという東南の角の「小間」/ 四畳半。


玄関の南にもあたるこの部屋は 「男性の書生がいるときにはその寝室にも」「客間がいっぱいになったり、ひき合わせたくない客がぶつかると、客間としても」使われたそうです。

東に面して作られた玄関。

↓障子の向こうに(畳は三枚敷かれていますが)二畳の「取次ぎの間」があります。

↑左へ行くと「小間」、右へ行くと八畳の客間、です。(そして壁の向こうが「茶の間」になります。)

玄関前から門を見たところ_。

(↑四の坂から この門はちょっと「見上げ」ましたから_ 表とは 結構高低差あります、ね?)

玄関の北の「客間」。

広々とした八畳間です。が 実際は芙美子の原稿を待つ記者達が何人もここに詰めていたそうな。



改めて前庭から建屋を見てみます。
↓東の建屋。


↑キクさんの部屋の上の越屋根部分は 二階の物置_今風に言うとロフトだそう。/ 階段はなく、吊り下げ式の梯子で上がる仕組み、ですって。(正にロフト!)
↓中庭を挟んでー、

↓西の建屋。

ああ_
いいお家です。
私もこんな家に住んでみたい!

ありがとうございました。

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↓表通り(中井通り)にあったMAP。「落合に住んだ文化人」。

↑へ~ この界隈にこんなに沢山の著名人が!

機会があったら 他のお屋敷も訪ねてみたく思います。

<おまけ>
中井駅へ向かう途中見かけた商工会のバナー。



↑へー 中井って「染物と赤塚不二夫ゆかりの街」だったのー???

_思いもかけず 中井に 「ちょっと詳しくなれちゃった」ノダ。