岩の「真鶴町 民俗資料館」(旧-土屋邸) | (又)おだわらぐらし はじめました

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「真鶴町(マナヅルマチ) 民俗資料館」 へ行ってみました。/ 実はこちらが 今月一杯で閉館 とネットニュース(カナロコ)で読み、、、 初めて「真鶴にそんなところがあったんだ」と知ったのですが_ なんとか 見学できるうちに訪ねられて良かった、です。

↓場所は_前出の古着屋さん「609」から もう少し山側へ歩いた所ですって_。


あ、ここだー。



↑右の柱に「旧土田邸 真鶴町民俗資料館」と書かれた札、門扉に「マナヅルマチ民俗資料館 ご案内~」のプレートが貼られています。又左下には「貴船まつり展」の案内板が置かれていました。
↓あ、駐車場の案内 も書かれています。建屋のすぐ横に 車が停められたんですねー? 又そこが一杯だった場合は 旧・岩小学校(現・岩ふれあい館)のグラウンドに停めて下さい になってます。


味わい深いお屋敷ですね?
施設のオープンは 建屋が町に寄贈された昭和61年(1986)~だそうですが_ いつ建てられたものかしら?

↓南側に「入口」。

↓表札が残っています。

↑琺瑯製? かろうじて「岩3...」「土屋文... 玉枝」の文字が読めます。
後で説明を受けて知る事になるのですが_ ここは 岩の石屋さんから 衆議院議員にまでなった 土屋大次郎(立憲政友会所属)の邸宅。表札にあるのは 屋敷の最後の住人で 大二郎さんの長男-康二の次男(大二郎さんからみると孫)にあたる文雄氏の名前なんですね?

(補足/真鶴の石材業は平安末期に土屋格衛という人物が始めた と言われています。町役場近くには その土屋格衛の他 江戸城築城の際にこの地で採石+搬出に力を尽くしたという黒田長政配下の者ら(真鶴の本小松石を発見したのは彼らだそう)を顕彰する 「石工先祖の碑」という石碑もあるそうです。)


戸を開けると_

↑玄関でした。柱が太く 立派ですねー。
↓上がり框(カマチ)に「呼び鈴」が置かれていましたが 鳴らすのがためらわれる大きさです・・・。が 鳴らすまでもなく すぐ管理人さんが出て来て下さいました。


「最初に大まかに説明をいたします。 その後は自由に見学して下さい。 撮影もして下さって構いません。 庭もお歩きになれます が 蜂がおりますので ご注意を_」(蜂は・・・怖いなあー)))

管理人さんからはまず この家を建てた土屋大次郎という方が どんな方だったか、を伺いました。

詳しくはWiki等をお読み頂きたく思いますが_
大二郎さんは 安政四年(1858)に地元岩の石工の次男に生まれながら(旧姓 武川)親戚筋の土屋家に養子に入り、土屋石店を開き、鉄道が普及して石の需要が高まった明治という時代の風にのって財を成し (湯河原の吉浜銀行や 豆相人車鉄道の取締役 熱海鉄道の監査役などを歴任) 県議になった~ そうです。

(↑明治三十六年の県会議員当選証書)
最終的には衆院議員にもなっていますが_残念ながら一年後に亡くなっています_。(明治43年(1910) 享年52歳)

↓へー。なるほど、そういう方のお宅というなら 納得~ の立派さ。ですね。









(↑座敷の北に 造り付けの金庫_。)
↓「展示品は 全て土屋家の物 という訳ではなく 地元の方の寄贈品も多いんですよー」との事。/ んー 土屋の法被は どっちかな?寄贈品 かしら 遺贈品かしら?


↓南西の角の部屋はー

まるで「お宝展示室」のようでした。


↓蒔絵の香合。

↓赤織部の香合。

↓富本憲吉の香炉。



↓バーナード・リーチの水入れ。

↓魯山人の菓子鉢。

↓河井寛次郎の水入。


凄いなー。

↓小壁には徳富蘇峰の書。



↓和箪笥の上には、昭和48年度 神奈川県書道展入選_という書。「蔓(ツル)ばらや 生きてなやみの 中にゐる」 作詩は 森みねさん、書かれたのは土屋玉枝さん との事。(表札にお名前があった方ですね。文雄さんの奥様でしょうか?)


古い家屋の持つ 抒情性を感じさせるあれこれ。




私的には パイナップル編みのレースの背もたれカバーとか 「懐かしい~」気がしました。(今日び見かけなくなりましたよねー)


↓本棚の本たちも 興味深かった。(本は大次郎さんだけでなく御子孫御遺族が買われたものも入っている かもしれませんね?)



↑うわー『沙翁(=シェークスピア)傑作集』ですって!/『食道楽(元々の作中ルビでは クヒダウラク / 一般的には ショクドウラク)』もあるー。背を自分で補修しているから 何度も読まれたのだろうなあー。(春の巻きが抜けてる? / ちょっと横道にそれますが作者の村井さんは小田原でこの本を執筆していた時代があるそう。へー。)


主屋の裏の蔵へ移動します。


↓縁の天井。


↓書院障子の裏。


(↑こういうスイッチも懐かしいー)

廊下の突き当り_西が御手洗。

東へ回ると 書院の裏を回って蔵へ行けるようになっているのですが その日は雨漏りがするので とこのルートは不通 でした。

(↑仕出し屋の番重みたいなプラ箱が 水受けに置かれていました・・・)

↓という訳で 一度玄関に戻って 改めて裏へ回って~ からの 続き_。


ここにあるのは 地元の人の寄贈品でしょうか、少し前までどこのお家にもあった 懐かしいあれこれ でした。



(↑ブリキの米櫃とか この頃の子供は知らないだろうなあー)
↓二階へも上がれました。


二階には 漁網やビク スカリ 箱めがね など 海辺の暮らしを支えたあれこれ_。




(↑「釣り道具 スミヤキ用」のスミヤキはクロシビカマスの事。歯が鋭いので「縄切り」とも呼ばれます。/でこれを釣るためには「真鍮を巻いた糸」が使われていた、んですねー!へーっ)


とても真鶴らしい展示が見られました。

(↑ちょっと階段が急で 怖かったけど)


蔵と母屋の間の廊下には 真鶴の「石」についての展示がされていました。


↑真鶴で採れる「小松石」。

箱根の火山が生んだ「溶岩」だそうです。
↓これは「ビシャン」という加工用の道具。


(↑、もしかして ビシャン って叩くからビシャン???)
↓石切りには他にも色んな道具がある ようですね。

↓「石切業関係年表」ですって。(これが 地味に面白かった)

↑「756 相州産小松石が岐阜県養老郡時村 龍淵寺の墓石に用いられたといわれている。
  1160 この頃、土屋格衛が石工をはじめたと伝えられる
  1192 この頃、鎌倉の年づくりや寺院の建築墓(?)などに、箱根、伊豆等の安山岩が使用される。
  1469 石工先祖の碑が初めて建てられる。
  1571 石材の産出がさかんとなる。
  1603 この頃、五味伊兵衛が石屋善左衛門の依頼で用石を船で江戸に運ぶ。
  1620 岩の口開け丁場が黒田長政によって開かれる
  1640 この頃、岩の石切丁場は十ヶ所となる。
  1660 この頃、岩の石切丁場は56、57ヶ所となり、石材業は盛況となる
  1672 子の頃、真鶴の石切丁場数は十ヶ所となる。
  1711 岩沢丁場をめぐり 岩、吉浜間に争いがおこる。
  1713 岩が領主より築石課約(役?)につき前金貸付を願い出る。(ここはどういう状況でしょう?)
  1715 岩が石材業不振のため漁業渡世を願い出る
  1746 決着済みの岩沢丁場をめぐり 岩、吉浜村間に再び争いがおこる。
  1767 滝紋寺の宝篋印塔が建てられる。
  1832 星ヶ山の石切丁場をめぐり 岩、江ノ浦両村間に入会論争がおこる、
  1844 岩が石材不振のため漁業への転職を願い出る
  1845 増上寺広大院の宝塔用石が切出される。
  1848 岩が再度領主に漁業への転職を願いでる
  1850 真鶴岬に台場が造られる。
  1853 品川台場の用石が切出される。
  1855 増上寺心観院に宝塔用石が切出される。
  1858 土屋大次郎 誕生
  1859 江戸城本丸献納石が岩村から切出される。この頃、横浜築港用石が切出される。
  1866 増上寺昭徳院の宝塔用石が岩から切出される。
  1868 明治天皇 即位
  1872 新橋横浜間に鉄道が敷かれる
  1877 この頃、石材業が次第に活気をとりもどす
  1888 東京(帝国)大学工科本館建設に新小松石が用いられる。
  1896 小田原~熱海間に人車鉄道が開通する。
  1897 土屋大次郎、東京 築地で石材商店を開業。
  1900 この頃、岩の土屋大二郎が茨城県に進出する。
  1906 小田原~熱海間に軽便鉄道が開通する。
  1910 土屋大二郎 死去。
  1911 この頃、千葉県冨津砲台築造のため、岩の陸軍丁場が開かれる。
  1922 熱海線が真鶴まで延長される。
  1923 関東大震災がおこる。(日本橋浜町にあった土屋商店も被災。崩壊消失。後に復興。)
  1927 宮内省図書寮、早稲田大学記念講堂などの建築用石として、小松石が切出される。
  1928 八重洲ビルディング建築用石として小松石が切出される。
  1934 真鶴漁港が完成する。
  1941 この頃、軍事施設の建築工事の用石に小松石が切出される。。
  1945 敗戦
  1959 この頃、日本経済が成長期に入り、小松石の需要が増大しはじめる
  1970 この頃、石材業の採石、加工の各分野で経営の近代化が進められる。」

良い時も悪い時もあった石材業ですが、 江戸時代に何度も石工さんから漁業に従事させて欲しいという願いが出されていた事 興味深い。(職業選択の自由の無い時代って 大変だったんですね・・・)


主屋の方では~

真鶴の「貴船(キブネ)まつり」の展示がありました。


↑ああ、昔は 浜から船を出していたんですねー・・・。

↓(廃校になった)岩小学校を紹介する 手作り感溢れるパネルも面白かった!

(イラスト入りでわかりやすい^^)







本当に 本当に 見どころ一杯! な資料館でした。

閉館したらこれらのお宝は どうなるのかなあ? / ヨソモノながら気になります・・・。

でも_ そうですね、とりあえずは一度休んで この建屋の修繕をする必要はあるかも、ですね? // ありがとうございました。