日光田母沢(タモザワ)御用邸 記念公園 | (又)おだわらぐらし はじめました

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「新しい日常」を綴って参ります

金谷ホテル歴史館に続いては、旧「日光田母沢御用邸」が保存されている 日光田母沢御用邸記念公園へ行ってみました。(母沢御用邸は 明治時代に皇太子(後の大正天皇)の静養地として建てられ 大正時代に 天皇の滞在地として整備され 太平洋戦争中は皇太子(現上皇様)の疎開地として使われた所、です。) 






でここが又 広くて 大変見応えがあって ・・・
又 土地 建物についての由来も複雑で ・・・

(↑上が北 ↓下が北)

(↑尚 今「旧御用邸」として保存されているのはこの面積ですが、戦前は田母沢の右岸側も御用邸敷地内で 今「ふふ日光」が建つ場所には 「田母沢御用邸付属邸」(第四皇子澄宮(スミノミヤ)崇仁(タカヒト) 後の三笠宮_の御殿→戦後は国民宿舎に) があったといいます。)

何しろ_
・地元の名士小林年保(ネンポ)(←金谷善一郎の幼馴染で 善一郎が金谷ホテルを開業する際には融資もしてくれた人)が田母沢川左岸に持っていた別邸に_
・東京の赤坂から 「旧紀州徳川家江戸中屋敷の一部」を移築して_いるんです。
こうして明治32年(1899)に一旦完成するもー
・大正時代に入り 天皇の静養所 になると施設は更に拡充される事になって 建屋も増え 改築もされ~ したようです。
(又 それ以前、の話として_
元々田茂沢川あたりに住んでいた住人には集団移住をしてもらう~ やら・・・色々大変だったようです。)

_という訳で 詳しくはWiki等をお読み頂く事にして(まるなげ)_
ここには 淡々を絵を貼って参ります。









↓説明板。

↓御用邸全体図。(大正時代に建てられた 田母沢川対岸の「御用邸付属邸」も描き入れられています。)

↓現存する建屋。


(↑赤い部分が赤坂御用地にあった「花御殿」と呼ばれる部分。)
(↓紀州徳川家江戸中屋敷。/ 上屋敷焼失後は 中屋敷が参勤交代で藩主が江戸に滞在する際の 本邸となっていたそう。)

(↑ちょっとわかりにくいのですが 黄色い線で囲まれた「三階建て」部分が 田母沢へ移築された「花御殿」。(花御殿部分は 藩主の私的な空間だったといいます) / 尚 青い線で囲まれた部分は「赤坂仮皇居(後・東宮御所)」に使われた部分、だそう。 改めて凄いな徳川^^;)

因みに 元々の田母沢はこんな所だった模様。


(↑タイトルが「田母沢園絵図」となっています。↓小林年保が所有し 別邸を建てていた頃ですね?)

(↑ほう「(前略)その庭は当時から名園として知られていました。現相、皇后御座所横にある樹齢350年~400年のシダレザクラは、日光田母沢園の名残です。」 ← 覚えておきましょう。)

様式について_。

(↑なるほどー 色々な時代の建屋を一種「寄せ集め」しているので 建築様式が混在している、んですね?)

展示品あれこれ_。


↑テーブル掛け。
↓襖絵。


↓移築の際は 元の金具も使われたよう。 が葵の紋の上には 菊 を被せる必要があったようです。

↓こんな「サンプル集」みたいなのも 面白かった。

↓畳縁(タタミベリ)。

(↑へー 天皇のお部屋は「絹と綿で織った小紋縁(ショウモンベリ)」で、皇后が和装で過ごされる御座所、御寝室などは「衣擦れに配慮して絹製の萌葱絹縁(モエギキヌベリ)」ですかー。

(↑生麻縁(キアサベリ))

(↑萌葱絹縁(モエギキヌベリ))

(↑小紋縁(ショウモンベリ))

(↑中紋縁(チュウモンベリ))

(↑繧繝縁(ウンゲンベリ))

釘隠しのパーツごとの説明。



引き手。


試験に出まーす。(嘘)

すみません こんなペースで見学してたら「ひぐらしの~」になってしまいます。

ピッチを上げて参りましょう。















↓ここからが紀州徳川家の中屋敷の「花御殿」と呼ばれる三階建 建屋 のようです。




(↑ああこれが小林年保が所有する「田母沢園」だった頃の名残、と言われるシダレザクラですね?)



二階へ上がります。






南の廊下の窓からは松林が見えました。



因みにこの二階はー

↑手前が「御次の間」、
↓奥は 天皇の「御寝室」だったそうです。

(↑なんと 御寝室には「照明器具がなく、燭台を用いました」のだそうです。(危なくないですかね?余計なお世話ですが_))
↓北の廊下の先の板襖には蘭陵王かな? な絵が描かれていました。


↓二階南東に 独立性の高い部屋がありました。


大正天皇が 南方向に位置する皇居内「宮中三殿(賢所・皇霊殿・神殿)」に向かって遥拝されたお部屋_との事でした。 (なるほど。 しかし 江戸の人が北極星の方向を「神君のおわす日光」と思って拝んだのと 逆 である事にちょっと ハ っとさせられますね?)

さて、「花御殿」部分には三階もあるのですがー・・・

↑残念、公開は冬の短い期間のみ、だそうです。

一階へ下ります。



↑説明板によると_、展示室に置かれていた四枚の 中国風の絵の描かれた襖は 元々はこの部分に置かれていたんですってー。↓


(花御殿は本当に 華やかな御殿だったんですねー)

↓花御殿一階部分。


↑奥が「御座所」、手前が「御次の間」。
↓お目出度い絵 雅な絵 の描かれた板襖。





↓ここは「御食堂」。(奥が 天皇皇后両陛下がお食事された間。手前はお「御次の間」で、おつきの者達が両陛下のお世話をしていた部屋だそう。)


(↑説明板の写真によると 元々は畳敷きだったようですね。)

ここからは小林年保の別荘であった「明治時代の建物」。/ ほぼ 皇后のプライベートエリア、として使われていたようです。

↓皇后御座所。(英語でLiving Roomって書かれてます。居間 でしょうか?)


↓御湯殿。

↓御厠。


(↑こんなところまで 緑の絹の縁の畳、なんですね。)
縁側からー

お庭を見る。





↑二階「御学問所」へ。
↓「御学問所」の窓からは あの シダレザクラがすぐそこ に見えました。




↑建屋の屋根の連なりも面白い。
(しかし「御学問所」の部屋自体は 撮り忘れー)

↓これは一階に降りて 見上げた桜。




最後に_
こんな素晴らしい文化財が 戦後は「田母沢御用邸付属邸」も含め「国民宿舎」になっていたそうです。(この本邸の方は「日光田母沢本館」と呼ばれていたのがこの図からわかりますね?)

やー 御用邸として復元されて・・・ よかった~っ。

おしまい。


<はみだし的に_>
御用邸を出て 日光駅方向へ歩いていたらー







↑ポケパのような所に こんな旧町名標がありました。
↓「安川町(ヤスカワチョウ)」

↑「「本妙道院」「釈迦堂」の門前に甍を並べていた約40戸の「原町」住民は、明治30年頃「田母沢御用邸」の建設伴い、現在地である徳川家管理の「善如寺谷・西谷」に移住した。
当時の管理者であった「勝海舟」は、この原町住民の移住によってできた街を、その雅号(別名の安芳の事?) の一字「安」をとり、「安川町」と命名し、今日に至っている。」
__明治も 色々大変な時代だったんですね・・・。