

(↑右が北。↓上が北。)

↑「国指定 弘前市仲町(ナカチョウ)伝統的建造物群保存地区
弘前城の城下町は、南北に長く東西に短いほぼ矩形の弘前城を、自然地形を活かしながら四方から取り囲むように配置された。今は搦手門(カラメテモン)となっている北門(亀甲門)が当初の弘前城の大手門であり、その北側に亀甲町(カメノコマチ)と呼ばれる一筋の町人町をはさんで、数か町の侍町が配置された。この侍町を仲町と呼んでいるが、保存地区はこの地域のほぼ三分の二、面積約10.6ヘクタールの区域である。
保存地区は往時の地割りをよく踏襲しているほか、道路沿いに連続するサワラの生垣、点在する門や板塀、前庭の樹木が独特の景観を生みだし、前庭の奥に建つ木造真壁造の主屋とともに城下町の雰囲気を残している。
近年、多くの伝統的な町並みが大きく変ぼうしているなかにあって、江戸時代の武家屋敷街の景観を今に伝える地区として重要である。」
(↑_とありますが、公開されている建屋のほとんどは (旧岩田家住宅以外) 他の場所からの「移築保存」だそうです。)
まず (案内板から一番近い)伊東家住宅から見せて頂きましょう。



↓説明板。

↑「旧伊東家住宅
(元長町から移築復元)
この建物は、藩政時代に代々藩医をつとめた伊東家の居宅で、石高百石前後の中級武士の居宅によく似た構造や特徴を持っています。
簡素ながらも剛質な造作をした床と違い棚を組み合わせた座敷に、藩政時代の落ち着いた住宅空間を見ることができます。」
扉は閉まっていましたが 壁に「靴をぬいでお入り下さい」という注意書きが貼られていましたので 「こんにちはー」とお邪魔。
↓入ってすぐの小さな板の間。

↓面白い事に(?)その先は 土間でした。

↓土間側から見た 板の間と 座敷。

↓板の間には囲炉裏が作られていました。

(↑お医者さんの家らしく 薬研なども置かれていました。)
↓戸棚には食器やお膳。

↓二間続きの座敷。


↑直線的な欄間。建具や畳縁と調和して 和モダン民芸調、とでもいうのかな?な感じ。
↓東に床の間。

_なんとなく「生活空間」のようですが そばの説明書によると 「板敷の部屋は診療室」、「畳敷の部屋は当時の入院室」だったらしい との事。又「部屋の仕切りに壁がなく、全て襖や障子戸であることや真四角の四座敷(ヨツザシキ)となっているところ等は、武家屋敷と異なるところです」 だそう。へー。(すると逆に「家族の居住空間はどうなっていたのかしら?」という疑問がー。藩医なら住み込みの供もいたでしょうし...)
続いては垣根をはさんでお隣、の「旧梅田家」を見せて頂きましょう。

(↑手前が伊東家、奥の茅葺屋根の家が梅田家。)


↑「旧梅田家住宅」の部分だけ写します。
「この建物は、19世紀中ごろの嘉永年間に建てられ、在府町にあったものを弘前市が梅田家より譲り受け、昭和60年に移築復元したものです。(中略)外観は、冬の季節風対策で北と西は閉鎖的に、南と東は採光と風通しを考慮した開放的な造りとなっています。
津軽地方の一般的な武士の住宅として、また調度品に遺された墨書から建築年及び当時の居住者を推定できる建物として貴重です。」



↑南側に冠木門。
↓玄関。



玄関を入ってすぐの間は 控えの間。(客の従者 或いは「こちらでお待ちを」と言われた者のための小部屋。)
↓手あぶりが置かれていました。

↓客間。

天井はなく、むき出しの梁 藁屋根の裏(小屋組) が見えました。

(「梅田家住宅」と呼ばれていますが 建てられた当初(嘉永年間)の居住者は「森新次郎」で「森家の十代目、知行百石の武士」とわかっているそうです。)
畳の間に 小振りの炉。

板の間には 大き目の囲炉裏。


↑綺麗にならされた灰、気持ちが良いなあ。
↓板の間に食器棚。ここで食事がとられたんですね?

(↑隅に煙草盆、火消し。左は炭斗箱ですかね?)
↓土間におくどさん。(奥の窓は 多分、一枚飛ばしに板が張られ スライドさせると 光や風を調整しながら入れられるタイプ、ね?)

ああ、懐かしい空間だったー。


_ありがとうございました。