長勝寺北の忠霊塔 | (又)おだわらぐらし はじめました

(又)おだわらぐらし はじめました

 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

長勝寺北の「禅林広場」に 高い塔がそびえていました。


東の面に「忠霊塔」と記されています。

多分忠魂碑の類と思われます。(忠魂碑の類は_)全国どこにでもあるけれど こんなに大きいのは珍しいうえに 上に梵字(釈迦如来を表す「バク」)がついているものを見るのは初めてかもー?

↓説明板。

「ここ弘前忠霊塔は、明治の幕開けとなった戊辰戦争(1868年)以降の戦没者を弔うため、大東亜戦争(太平洋戦争)のさなか1941年7月にっシュンコウし、1945年11月に完成した。これは当時の陸軍第八師団と弘前市民の奉仕により完成した。なお、壁面に埋め込まれている無数の玉石は当時の市民特に小中高校生等が授業の一環として岩木川の玉石をリュックサックにつめて約3kmを徒歩で運搬したものである。
忠霊塔・忠魂碑は、その当時全国の各市町村にあったが、終戦後の昭和20年秋、占領軍(GHQ)は忠霊塔の「忠」は軍国主義につながるとして全て破壊を命じた。しかし乍ら弘前忠霊塔は(昭和23年/1948年に)横浜の総持寺(曹洞宗大本山)から仏舎利(釈迦の分骨)を合祀し「忠」の字を梵字で覆い「霊塔」としてこの難を逃れた全国的にも数少ない一つである。
以後、昭和27年(1952)には、この広場で「第2回世界仏教大会」が開かれ観光の名所として地域に知られた。その後忠霊塔の東側地域を弘前市が管理し「禅林街広場」として整備されたものである。
なお、青森県内の戦没者29175柱は、現在青森県護国神社(弘前公園内)に祀られているが、その内の2500余柱は分骨により、ここ弘前忠霊塔に納骨されているのである。
 管理団体 宗教法人弘前仏舎利塔」
へー・・・。
これは忠霊塔でもありながら 仏舎利塔 だったんですねー・・・。(それでお釈迦様を表す種字が...)

近くで見上げた忠霊塔。

合掌_。

(↑奥には施無畏与願印のお釈迦様がいらっしゃいました。)
(↓塔内配置図。中央の部屋に階段が記されています。多分螺旋階段 なんでしょうね?


それにしても_
明治の神仏分離令では 権現信仰の(神仏習合の)施設にあった仏像がお寺に移され、 戦後は国家神道が否定されて 忠霊塔では公的な慰霊ができなくなり・・・、、、ですか。 神社もお寺も(そして両方の信者たちも)100年の間に大きな混乱を 何度も味わってきていたんですね。


塔の先には 桜が植えられていました。




_御霊も 慰められていますように。


<ちょっとおまけ>
禅林広場の入口脇に 屋根に擬宝珠の載る 禅林街にマッチした公衆電話があったのですが_


入口前には三段ステップがついていて「雪国仕様」にもなっていました。

 - - - - -

この後は市役所まで戻って 屋上から桜を鑑賞しました。(↓レンガ調のビルが弘前市役所です。)

(市役所の屋上に上がれるのは4時半までだったので すぐそこ、なのに なんとタクシーを利用。)


(↑屋上の 一段高くなっている場所が展望デッキ)
↓デッキからの眺め。/ 東側。



(↑あの瀟洒な洋館は旧図書館。この後 行ってみております。)
↓北に追手門(オウテモン)。

↓この先に天守閣があるはずなんですがー・・・。

↓西に目をやると 桜並木の向こうに岩木山。



岩木山からもう少し左_
南へ目をやると~
さっき行った禅林街の忠霊塔が見えました。



あそこが忠霊塔なら
その手前のこんもりした木立は 天神さんの杜かな?
先に塔へ行っておいてよかったなー。(忠霊塔を知っていないと 市役所の屋上から見えても そうとはわらかなかったでしょうからね) でした。