日光街道を歩く 小山(オヤマ)~中華の「龍鳳」 | (又)おだわらぐらし はじめました

(又)おだわらぐらし はじめました

 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

「日光街道を歩く」(←亭主の入ってるグループ)_
12月は(先月の続きで)小山からスタートしました。/ 今回は宇都宮までを二回に分けて歩く予定。初日の目的地は石橋、です。

(↑すみません、11月の回に貼った絵を使いまわしてます_)
↓小山駅改札近くのスタバでミーティング。


まずは県道265号線(旧-日光街道)を目指します。

(↑駅西口から西へ歩いて 最初の交差点を右、「興法寺」の方へ。/ 写真撮り忘れたので絵はストリートビューからもらいました・・・)

北へ歩くと 右手に「村社・愛宕神社」がありました。


手水舎。

年代物、と見える狛犬達。


旅の安全を祈願。

「よろしくお願いします」_
↓石に刻まれた社誌。

↑「主祭神_火産霊命(ホムスビノミコト≒カグツチ) 由緒_貞応二年(1123)九月、城主小山左衛門尉朝政本城(←小山城/祇園城)鬼門守護の鎮守として山城国(京都)の愛宕の神を勧請して創建した。以来小山家代々の崇敬篤く、当稲葉郷の鎮守と仰がれている。(後略)」
(おっと、てっきり向かいの興法寺の旧鎮守社かと思いましたが 鎌倉時代の城主が勧請した城の鎮守社起源の 郷の鎮守、でしたかー。)

因みにその「向かいの興法寺」は_

(↑ストリートビューから)
嘉祥二年(849)に慈覚大師円仁が結んだ妙楽院に始まる という古刹で、天慶三年(940)に藤原秀郷(←俵藤太!)が祇園城を築城すると城内に移されて「徳王山妙楽院興法寺と号し」その後は小山氏の祈願所となった、そうです。

少し行くと お菓子屋さんが・・・
↓無くなっていました。。。(リーダーの持つガイドブックの情報はちょっと古かったもようー)


(↑ストリートビューからもらった お菓子屋「蛸屋総本店」さん時代 の建屋_。今は「OGO」って会社が入ってます。)

両毛線の踏切を渡ります。


道の向こうに お社の背中、が見えました。

↑奥に洋館が建っています。/ フェンスで囲まれていて 同じ敷地内~ という事は会社の屋敷神さん、でしょうかね?
↓あら、小平産業、ですって。(「会社概要」の頁に あの洋館が写ってます。洋館は 創業時からの社屋、とかですかね?)



その先に「村社-日枝神社」の参道。

日枝神社は二百数十メートル先~ というので お訪ねしておりません。が 社殿脇に祇園城(≒小山城)の北の守りの木沢(or喜沢)砦の土塁が残っている そうです。

「喜沢分岐点」の交差点。

分岐点(喜沢の追分)に「男體山(ナンタイサン)」と刻まれた石。


県道265号線を離れ 旧日光街道に入ります。

畑の脇を歩きます。

(↑葱を収穫してる方があったので 挨拶。/今年は暑さで 葱 小芋の出来は思わしくなかった ~ との事_)

その先に「喜沢の一里塚」。


(↑手前が 東側の塚 奥が西側の塚。木立の中の塚は 形がよく残っていますが 木の無い所の塚は そうと言われないと塚とは気づけませんねー・・・)


旧-日光街道、国道4号線に合流ー。

「羽川(ハネカワ)-新田宿(シンデンジュク)」と彫られた常夜灯付きの(?)柱。(新田は日本橋から数えて13番目の宿場)

宿の存在を教えてくれる物理的な物が乏しいエリアなので 「ここで一枚!」と記念撮影^^;)))

郷社-橿原神社。

何故小山に神武天皇を祀る橿原神社が? (調べてみると やはり橿原神社となったのは明治以降で 元は「星宮神社」という氏神を祀る社だったそうなー。)とそれはともかく...
↓参道両側に桜が植えられ 「花の頃はさぞや」な神社でした。



尚行きます。

国道4号線を離れ 旧街道へ。


おや?これは?

馬頭観音を刻んだ石、でした。

お祀り処を後ろから覗いてしまった模様。失礼しました。/というより、馬頭観音の碑の前を歩くべきだったのです!(旧街道の裏に 新しい道路を通した、んですね?)
↓馬頭観音の先にも 道脇には 石仏の台座や庚申さんが並んでいました。(というか 集められ 並べられていました_)



さて 丁度お昼です。近くの中華屋さんに入りましょう。

↑お邪魔したのは「龍鳳」さん。(夜 宇都宮の中華屋さんに予約入れてるのに お昼も中華にしちゃうアタクシタチ...)
↓メニュー。

しっかり食べましょう!


あーおいしかった おなかも一杯。
御馳走様。


さて予定の半分も来てません^^;) ピッチ上げて参りましょう~。/ つづく