

(↑噴水の中に立つ「水の守護神」/ ←横浜の姉妹都市サンディエゴから贈られた像)
海を見つめて座るのは「赤い靴はいてた女の子」。


(↑寂しそうな表情に 胸がきゅうとなります。)
大桟橋が近づいてきた。


エキゾチックなインド水塔。

(1990年までは水が出ていたそうなんですけどね・・・、鳩の水飲み場になり 衛生的に~ と 水は止められたといいますー)

↓イスラミックな装飾の施された美しい天井。


↓台に彫られた文字。

↑ The Drinking Fountain
Presented to the City of Yokohama.
In Memory of
Our Countrymen
Lost in Earthquake, September 1. 1923.
The Indian Community.
これは昭和14年(1939)に インド人コミュニティーから横浜市へ贈られた 水飲み場、でもありますが、同時に1923年の関東大震災で亡くなった同胞の慰霊塔でもあるんですね。
_忘れがちですが、この山下公園は震災時に出た瓦礫を海に捨てたためにできた「埋立地」です。

(↑インド水塔はそんな公園の北西の角 にあります。)
公園を出て横浜開港資料館へ向かいます。





今開港資料館ではー
「大災害を生き抜いて」というタイトルで、市井の人の目が見 手が記した 絵や手記を中心とする企画展が開かれているんですね。

(↑ポスターに使われているのは 当時横浜元街小学校で教師をしていた八木彩霞(本名-熊次郎)の絵。この方の 実際に体験したからこそ描けた沢山の絵は、時に写真よりもリアルに「あの時」を残せていました。)
今回は 知人にすすめられて 来てみました。

(残念ながら・・・というか 当然ですが)館内は撮影禁止なので 貼れる絵 はここまでですがー

まず私 関東大震災の震源地が相模湾だった とか 東京よりも 神奈川の方が地震そのものから受けた被害は大きかった とか 今回初めて知った事が多く、 あれやこれやに驚かされました。
又 展示品には知人のお父さん(当時神奈川二中一年生の少年)の日記があり、今まで「遠い昔」と思っていた大正12年9月1日が いきなり「目の前」によみがえったような 不思議な感覚を覚えました。(お父さんの日記、 には 「(震災から)一年後」の事も書かれていたのですが、役所が定める 「(一周忌 鎮魂のため)サイレンが鳴ったら 黙祷する」という決め事も 守らない大人がいた~ など 震災が忘れられていく事に対する想いが クールに綴られていました・・・。)
さて 開港資料館は昭和6年(1931)に建照られた 元英国領事館。建築物としても大いに見る価値がある、のですがー


今は補修工事中~で、ほんの一部しか見学できません。

_ここは 「又こんど」改めて来る事にいたしましょうー・・・。
では 赤レンガ倉庫の方へ行ってみましょうか。

_つづく