印刷局へ向かう途中、左手に「道三稲荷」というお稲荷さんがあったので 寄ってみました。

以前から 地図を見て ここに「道三稲荷」というお稲荷さんがあるのは知っていましたが 「車をどこに停めればー・・・」と 訪ねられずにいたのです。

由緒書。

↑「道三稲荷神社の由来
当道三稲荷大神は、昭和18年2月初午の日に丸の内局(←東京辰ノ口_現在の丸の内1丁目_にあったという印書局の事かしら?) 構内から小田原工場開設と同時に、御分霊を遷宮して終戦を迎えましたが、米軍の指令により工場構内からの撤去を命じられ、やむを得ず場外に移転することとなってしまいました。
小田原工場は、酒匂地区在住の立入龍三氏にお預かりをお願いしたところ、快くお守りをお引き受け下さったことから、同氏宅に遷宮させていただき、以降しばらくの間、粗末なきよう御分霊をお守りいただき、昭和29年に至りました。
日本国の独立後、物心ともに安定し、自由の息吹と併せて伝統的な敬神崇祖の念も次第に取り戻されて来ましたので、昭和29年2月の初午から小田原工場各課代表、官舎懇親会有志ならびに酒匂地区■■有志の方々の発願によって現在の位置に鎮座いたしました。
伝えられるところによりますと、道三稲荷神社は、徳川幕府時代の幕府典医「道三」(←
道三稲荷本社は、関東大震災前までは東京丸の内の日清生命の裏手にあり、附近の企業等々に信仰者が多く、参詣の絶え間がないほどの隆盛を極めており、また、商運の向上が祈願されたことなどを見ても、霊験あらたかなる大神として高い信仰を得ていたことが現在に伝えられております。関東大震災後は、当時の会計課長「今井 勝太郎氏」の御努力によって、祠も神田橋、証券課分室角に祀られることとなり、さらには、大手町官舎横に移されることになりましたが、終戦後はこの地が米軍軍用地として接収されたため、やむを得ず、撤去されることとなってしまいました。したがいまして、道三稲荷の御神霊は酒匂の地に遷宮された大社が本社ということになり、今日に至っております。奇しくも、近隣の地「箱根湯元(本)・早雲寺」に「典医・道三」(=今大路 道三)の墓碑があることも何かの縁でありましょう。お稲荷さまは、元来、東京下町方面に信仰者が多いものと思われていましたが、当地に鎮座致します「道三稲荷」は、怪我の防止にも霊験あらたかであるとのことであります。そのように言われてみれば、「典医・道三」と「怪我や病気の防止」、「安全祈願と無病息災」、まんざら関係のないことではないように思われます。また、遷宮された当時を知る方々によれば、この道三稲荷は別名「昇給稲荷」とも言われ、そのような意味からも、参詣する人が非常に多かったとのことであります。
この道三稲荷は、小田原工場の開設とともに遷宮され現在に至っております。したがいまして、小田原工場をはじめ、研究所の発展を祈願し、公私にわたる災害、事故等がなくなるよう職員に多幸からん事を祈願し、さらには、この酒匂、そして小田原市が益々発展することを祈願する等々、また、今となっては痛ましい歴史の一頁としか言いようのない戦時中にあっては、出征応召へ石の武運長久が祈願されてきたことも、道三稲荷の長い歴史の中では、極々最近のことのようにも思われます。
このように昔から親しみの深かった道三稲荷は、当地の発展を祈願する寄(?)りどころとされ、霊験あらたかなることを信じて参詣する人々の数が非常に多かったことは衆人の知るところであり、しかも、本社が清浄なることは、当酒匂の地の誇りと称されるところでありましょう。
当道三稲荷では、毎年二月に初午祭を行うことが慣例となっておりますが、年々■■する社会の中にあって、人心の安らぎを求め、敬神の念を高める一助たればと思われます。
小田原工場、研究所をはじめとし、地域の方々、小田原市の ・・・ を祈願し、由来と致します。」
~ 長いけど 頑張って読んでみてよかったです。
ご挨拶。




縁あってはるばる酒匂にいらっしゃったお稲荷さんだったんですね。どうぞ長くここにお鎮まりを。

_で この後 桜を見に 印刷局へ向かった~ のでございます。

