伊東の「音無(オトナシ)神社」 | (又)おだわらぐらし はじめました

(又)おだわらぐらし はじめました

 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

(つづき)
では音無神社へ伺ってみます。


シンプルなつくりの拝殿・・・。


あら 扁額の両側に・・・

・・・だけじゃなく ぐるりに 柄杓が一杯!



「底抜けの柄杓」ですってよ?
これは一体?


↓賽銭箱の上に「底抜けの柄杓の由来」が書かれた紙が置かれていました。

御祭神である豊玉姫命の「安産の神」のご神徳から「底抜けの柄杓」は、出産にあたり水を汲むが如く安産であるとの意味合いがあります。
 このため、出産間近い産婦が拝殿の長押(ナゲシ)にある「底抜けの柄杓」を借り受け、お腹を撫でると必ず安産をもたらすといわれるとともに、無事安産であると新たに「底抜けの柄杓」をお礼参りに奉納されたと伝わっています。_ ですって。
尚、Wikiには 「安産のメタファーとしての穴の開いた柄杓(ひしゃく)「底抜け柄杓」を奉納するという独特の(とはいえ割と広く行われている)風習を持つ」 と載っていました。/ なるほど メタファー(暗喩)・・・。(「陰」のシンボル、ということでしょうかね)

時にこちらでは「由緒書」を見つけられなかったのですが_
御祭神は 「底抜け柄杓~」の説明にあるように豊玉姫命(←天皇家の祖神)だそうです。賽銭箱に菊の御紋があるのも 納得、ですね。


境内に ビッグサイズの絵巻物(というかパネル)がありました。_ 実質的に「由緒書」にあたりましょうか。


↑「音無神社の祭神であり、安産と縁結びの神 豊玉姫命の見守る中、源頼朝と、伊東の領主である伊東祐親の娘 八重姫が出会う。」

↑「頼朝八重姫はこの音無の森で逢瀬を重ね、やがて二人には千鶴丸が誕生する。」

↑「祐親は平氏に憚り、千鶴丸を稚児ヶ淵へ沈めるが、秘かに遠方へ逃がしたとの説も伝わる。」

音無神社伝承絵巻について
 当、音無神社のご祭神は海神の娘、豊玉姫命(神武天皇御祖母)であります。創建は境内に繁茂する大樹の樹齢が示す如く計り知れません。
 ご祭神が産殿の屋根も葺き終わらぬ内に産気づき、安産であったので、「安産」「育児」ひいては「縁結び」の神として崇敬をあつめて参りました。お産にかかわることから、暗闇を尊び十一月十日漆黒の中で神事が執行されます。世に天下の奇祭とし「尻摘祭(シリツミマツリ)」の名で有名です。
 当夜、余興として「尻相撲大会」が盛大です。
 鎌倉の昔、伊豆に流浪の日々を送った源氏の棟梁、源頼朝と、地主領主、伊東祐親の娘八重姫とのロマンスが、この森でくりひろげられ、千鶴丸なる和子が誕生。平家の恩顧をうける祐親の烈火の怒りに触れ、松川(=伊東大川)の奥深き「稚児が淵」に沈め害したと哀話を伝える。また異説に、秘かに和子を助けまいらせ他領に逃がし、成長させたとする説もあって、歴史ロマンは多彩でもあります。
 絵巻製作にあたっては伊東高校美術部や伊東市、玖須美区民等、多くのご協力、ご支援のあったことを感謝するものです。
  平成二十五年三月十七日
   玖須美神社氏子総代会
   音無神社奉賛会

境内の摂社 「玉楠神社」(左)。



↑Wikiには 「玉楠神社- 源頼朝と八重姫(およびその子である千鶴丸)を祀る。」とありました。/ (尚右手の小さな祠には「玉猫神社」と書かれてる・・・ように見えたのですが「玉描」かもー???)

↓摂社横の説明板。

音無の森、頼朝八重姫伝承
 曽我物語によれば、伊東の北の小御所に住んでいた若き日の頼朝は、伊東祐親の三の姫八重姫と結ばれて、二人の間に千鶴丸と名付けられた若殿が生まれました。
 二人が愛を語らった場所が、この音無の森だと伝えられています。
 頼朝は、この対岸にあるひぐらしの森で、出会いの時を待って日ぐらし過ごしたといわれます。今はその森に日暮八幡社があり、ひぐらし会館が建っています。
 両方の森を結ぶ岡橋(左手に見える)の手すりには、頼朝と八重姫の姿が描かれています。

文中の「岡橋」は 120m程川上に架かる橋ですが 見損ねましたので_ ストリートビューで欄干に取り付けられたレリーフの画像を貼ります。↓



玉楠神社の左手にあったのは 天然記念物のタブの木。


なるほどー 立派な木ですー。

ありがとうございました。


伊東大川沿いの「松川遊歩道」をもう一度歩いて 東海館へ向かいます。

つづく (撮影日3/30-木)