久能山東照宮(クノウザン トウショウグウ) | (又)おだわらぐらし はじめました

(又)おだわらぐらし はじめました

 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

ロープウェーで久能山(クノウザン)に着いた所からー・・・




(↑ロープウェー駅から東照宮入口まで 結構下りました。が この後廟まで今度は上がらないとなりませんでした。/ 階段無しの「横」へのルートがあるといいのにー。でした^^;)

↓久能山について。


↓久能山東照宮について。

 

では 改めて久能山東照宮境内へ。(東照宮は、元和二年(1616)4月に亡くなった徳川家康のため 同年12月に創建された霊廟。当時は東照社。尚 家康の遺言により 東照社は一周忌にあたる翌年-元和三年4月 日光へ遷座されます。その途中川越の仙波でも法要が営まれており、その地にも後水尾天皇(←中宮和子は秀忠の娘)から「東照大権現」の勅額が下賜され後に「仙波東照宮」に。その後もあちこちに東照宮が建てられることになっていきます_。が ここが 最初の東照宮(社)なんですね。 ) 

チケットを求めます。

境内図。

(↑ロープウェー駅で撮ったので現在地がロープウェー駅になってます スミマセン)

↓元和三年の建造という楼門へ。



扁額の文字「東照大権現」。後水尾天皇の御真筆、とか。




重要文化財、ですって。(当然ですよね?)


表の両の室に控えている随神様達。


↑豹の皮の上に座っている、のかな? 虎皮が「神座」を表すのは知っていましたが これは 「雌の虎(=豹(←江戸時代はそう信じられていた)」の皮 という事でしょうか?
↓裏の室には狛犬。



その先_階段手前に

手水舎。



神馬舎もありました。



(↑かわいい^^)

階段を上がると、又階段、、、



おや、左手の これは?

五重塔跡、ですって。


_なるほど、家光が建てた高さ30mの美々しい塔も 神仏分離令のため 神社(権現社も含む)にはおけなくなったんですね・・・。

この 右手には~



↑鼓楼 が建っています。
↓実はこれ 元々は「鐘楼」だったそうです。/明治時代、神社に鐘楼は~ ということで「鼓楼」とされたといいますが とりあえず 取り払われなくてよかった・・・。

(↑左手にあった五重塔は きっとこの鼓楼と釣り合うデザインのものだったのでしょうねー)

その一段上の建屋は 神楽殿。

(元は絵馬殿だった んだとか)


その奥には神庫。



(↑壁の横木がちょっと校倉造っぽい?)

日枝神社の方へ行ってみます。

右手に小社。

↑竈神社ですって。
↓改めて 日枝神社。元和三年に建てられています。


(↑元は薬師堂だったそうです。)

日枝神社前からみた神庫。


(戻って)
参道真ん中に灯籠。

ちょっと奈良風?

飛天も飛んでいたり・・・。

↓作られたのは元和三丁巳年四月十七日。
作ったのは江戸鋳物大工 椎名伊豫。


その先に 拝殿。



(近すぎて 写真が撮れません)))



沢山の彫刻。

(↑司馬光の水瓶割)

(↑瓢箪から駒)

(↑これは何でしょう?「なあなあもう一杯だけ」「先生飲みすぎですよ」?)





きりがありません^^;)

先へ行きます。


塀の潜り戸を抜けると又塀の潜り戸・・・。


そこからは石段・・・。

(↓拝殿の後ろの神殿部を見下ろしています。)

↓灯籠の並ぶ参道。

↓鳥居の先は 石垣に囲まれた墓所。





↓石垣に囲まれた広場の中央に 一段高まり 玉垣に守られた場所が見えます。

正面に又 飛天の彫られた灯籠。

賽銭箱の奥の石段の先に、 裳階 を省いた 真言系のお寺の宝塔のような 不思議な形の建造物 が。

近寄ると見にくいので 灯籠のところからズームで~。

正面に錠のついた扉。その先には 一体何がー? (因みに、伝承によると家康は 「吉田神道の作法で埋葬された」「西向きに座した姿で」だそう・・・)))

(尚 遺体がここ久能山にあるかどうかは 不明、だそうですー)

お賽銭箱に近寄ってみるとー

上に「遺訓」が書かれた札が。

「東照宮遺訓
人の一生は重荷を負て遠き道をゆくが如し いそぐべからず 不自由を常とおもへば不足なし こころに望おこらば困窮したる時を思ひ出すべし 堪忍は無事長久の基 いかりは敵とおもへ 勝事ばかり知て まくる事をしらざれば害其身にいたる おのれを責て人をせむるな 及ばざるは過ぎたるよりまされり」
スゴイ さすが家康! 立派だなあー。

一回り。

(↑石灯籠横の立札には 「神廟/ 徳川家康公の御遺体が納められた廟です。当初この地には小さな祠が建てられていましたが、三代将軍徳川家光公によって石造りの塔に改められました。その事から江戸時代は御宝塔と呼ばれ、明治時代以降は神廟と呼ばれています。/ 家康公の御遺命に従い、西向きに建てられています。」と書かれています。)


あら、後ろにも扉がついている?/いや上の梁、下の沓摺り部分にまで切れ目が入ってますからただの「石の継ぎ目」ですかね?

(↑因みに両横にも同じように扉風の凹凸があります。)

石垣の隅には 愛馬の墓 もありました。



こんな物も。


↑金の成る木。
↓いや 金の成る木って「存在しないもの」のたとえとして民謡に出てくるんですけどー? と思ったら こんなお話でした。

へー。(↑だんだん 大喜利状態に~)

墓所正面の灯籠は、

下の参道にあった物と同じ「鋳型」で造られた物かなと思いましたが よく見ると違っていました。


が鋳造者は同じ江戸鋳物師の「椎名 伊与」さん。 いや 下の物には「椎名 伊豫」と彫られていましたよね。(読み方はどちらも「イヨ」でしょうが。) 作られたのが「元和三年丁巳四月十七日」だから 同一人物が 同じ日に作ったのかー。


(どうでもいいところを分厚くしてスミマセン)

では 下りて参りましょう。


とその途中・・・
↓こんな説明板が。

墓所の石垣は 経年によるハラミダシが起こり、1833年に「添石垣」で補強されたそうです。/平成の修復時に石垣は創建当初の様子に戻しましたが 今度は「添石垣」が残ったので・・・
↓それを本殿裏の傾斜地に移した、そうです。

(なるほど)


拝殿前の扉。


(↑絵としてはしょぼいのですが・・・ 彫刻が 透かし彫りになっている事、こうやって初めてわかりますね?)

一度境内を出てー


博物館へ行ってみます。

見応えある展示の数々~(特に洋時計は「修復の手が入っていない」事で逆に資料としての価値が高い~とか 面白かった)でした。
↓博物館前に 古い狛犬達。





↑人のような表情に ちょっと ふふ ってなりますね^^)


さて、せっかく上がった久能山。景色も楽しみましょう。/つづく