先月の終わり、市内城山四丁目の居神神社をお訪ねした折の絵を貼ります。
この日(10月30日-日曜)居神神社では、
「居神神社創建五百年奉祝祭」の 神輿渡御が行われていました。


(↑丸に三引きは三浦の紋。そのまま神紋になった、のでしょうか。)
ただ、私達が神社に着いた時は御神輿も 関係者も「渡御」で町内を回っていたようで 境内は意外な事にヒッソリとしていました。。。
ま、「境内の写真 撮らせて頂きやすかった」と思う事にいたしましょうかね・・・。

(↑社号標と一の鳥居)
↓説明板。

「居神神社について <小田原市城山>
創建 永正十七年(1520) 例祭五月四日五日
御祭神
*三浦義意(ミウラヨシオキ)公 (1496-1516)
幼名 荒次郎
桓武平氏の流れをくむ名族で鎌倉幕府の中核を担った三浦一族の子孫、三浦道寸義同公の嫡子です。
関東制覇をめざす伊勢宗瑞(=北条早雲 1456?-1519)に攻められ 三崎新井城で自刃、御年二十一歳でした。
十五歳で禅正小弼(ダンジョウショウヒツ 冠名の一つ)と称されており筋骨たくましく文武両道に優れ武将としての器量は飛びぬけていたと伝えられています。
*木花咲耶姫命 明治四十三年(1910) 大窪村 浅間神社より合祀。
*火之加具土神 〃 秋葉神社より合祀。
境内社 水神社 (小田原早川上水 小田原用水 護り神)、 金比羅神社、八幡神社。
小田原市指定重要文化財 居神神社境内の古碑群。
石碑「勝って甲の緒を締めよ」 当社創建に深い関わりがあった小田原城主 二代 北条氏綱公を顕■(彰?)すべく「北条氏綱置文」より一節を刻む。
神社本神輿 香川文造高之作 白木八棟造り。
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当神社の創建は永正年間とされておりましたが 平成二十八年に歴史愛好家によって 永正十七年(1520)であることがわかりました。この年は小田原城主北条氏綱公が小田原城内や城下を整備した年です。
境内地は北条氏の軍奉行、山角(ヤマカド)信濃守の住まいを転居させた跡地であること、 神輿巡行は創建の翌年から始まり 馬出門(ウマダシモン)にて祈祷と異例にも城内祈祷が順路の中に含まれており青物町、欄干橋町、安斎小路、 浜下り祈祷、板橋地蔵堂前にいたる とあります。又当社創建同年 氏綱公はご祭神の墓所の土地を 父三浦道寸ゆかりのお寺に寄進しております。 このように さまざまな事例により 居神大明神は永正十七年に北条氏綱により創建されたものと考えられております。」 だそうです。 (三浦を滅ぼしてから数年後、 早雲の死(1519)の翌年に神として祀った_。鎮魂の為の社 の性格が強いという事でしょうか。/ 尚、居神神社の建つ場所は 元は「井神の森」と呼ばれた場所で 三浦義意の首が晒されたのがこの地 という伝承も。)
左手に子安地蔵尊が祀られていました。

(高さのあるお堂なので 神輿藏かと思いましたら 地蔵堂でした。覆い屋、だったんですね。)

↑中には お神酒 カツ節 お米 季節の果物(リンゴ 柿 葡萄) 季節の野菜(人参 白菜 エリンギ えのき ピーマン ナス サツマイモ 小松菜~)が。
↓説明板。

「子安地蔵尊 由来
御本尊 子安地蔵大菩薩 恵心僧都(エシンソウズ)作
この地蔵尊は数百年もの昔から この地に安置され 心の寄りどころとして 多くの方々から尊崇されてまいりました。
永正十七年(1520)に居神神社が創建されましてからは本地佛として 又当社の別当寺(貞正寺)の御本尊として祀られてまいりました。
貞享四年(1687)には堯門(ギョウモン)和尚により再興され 天明六年(1786)には知覚和尚により再興されておりますが 明治初年の神仏分離令以来秘佛とされてまいりました。
昭和六十年に地蔵堂及び鞘堂(サヤドウ 覆い屋)が建立され 再び往時の如くご祈願いただけるようになりました。
さてでは本殿の方へ上がって参りましょう。

二の鳥居 まで来ました。

手を清めます。


(↑滴る式)
西側に「勝って甲の緒を締めよ」と記された石碑。

↓説明板。

「居神神社の創建と 「勝って甲(兜)の緒を締めよ」碑建立について
居神神社の創建は永正年間と伝えられてきましたが、平成二十八年に、当社の創建年を記載した文言が発見され、永正十七年(1520)に創建されたことが判明しました。
また、御祭礼は翌年の大永元年(1522)から始まり、神輿渡御は「山角(ヤマカク)・筋違(スジカイ)二町より箱根口から城内に入り 馬出門(ウマダシモン)にて祈祷、大手に出、青物町・欄干橋町より安斎小路に入り 濱下り祈祷、それより板橋村地蔵堂前に至る」順路で行われていた事などから、当社創建と祭礼の実施には、当時の(二代目)小田原城主北條氏綱公の強い思いや意向があったものと考えられます。
そこで此度、北條氏 家訓ともいわれる「北條氏綱置文」の結びの文章で、我国初出お格言とされる「勝って甲の緒を締めよ」(物事が順調な時こそ気を引き締めなさいという意)を石に刻み、当社創建にまつわる史実と氏綱公の顕彰を居神神社から発信いたしたくここに建立したしだいです。」
手水舎の左(西)にはスロープがありました。

スロープからも本殿へ上がれるようになっていましたよ。

途中にはこんなお像が。

「居神の森 厄除不動明王」だそうです。
↓その手前の石にはー

「小御嶽 石尊 大権現 大天狗 小天狗」と彫られています。/ どんな謂れが?(もしかして 拝殿の虹梁の上の天狗と烏天狗の彫刻の 物語 と関係が?←と これは後で思った事・・・)
石段の方を 上がりましょう。(実はスロープは帰りに歩いたのでございます。)

こちらが居神神社。

清々とした祀り処ですね。

唐破風の下には鳳凰。

虹梁の上には不思議な彫刻がー。

(↑左の男性は 跪き 真ん中に立つ天狗さんに巻き物のような物を捧げています。(いや 頂いてるのかな?) 右には天狗さんの刀持ちと思しき烏天狗。/これは一体どんな ストーリー?)
拝殿奥にー

社号の書かれた額。

お祭りの日、とて 中にはお供え物が沢山ありましたが 撮影は自粛。
↓拝殿を横から見たところ_。


境内社を回ります。/まずは社殿東側から_
↓金刀比羅神社。


↓八幡神社。


西側へ移動。


↓こちらは聖徳太子堂。



↓神輿堂。

神輿堂の奥にはー

念仏塔や庚申塔が並んでいました。

(↓三猿の上に立つ青面金剛さん)

↓説明板。

「小田原市指定重要文化財(昭和三二年三月三〇日指定)
居神神社境内の古碑群
この古碑群は市街地に残るものとして最も古いもので、鎌倉時代末期のものです。
文保・元享の両板碑には刻文があり、その中のいずれにも念仏衆の字句があって、これらの板碑が念仏供養のために建てられたものであることが分かります。
なお、向かって右手の五輪塔線刻碑二基と、左手の念仏塔、庚申塔など四基は、未指定で、近隣から移転してきたものです。(後略)」 (そっか 未指定のものも並んでいたのか^^; 庚申塔なんかは江戸時代のものでしょうね。)
社殿側に・・・ 井戸?

かなと思ったのですが 井戸の縁 かも?

奉納者は板橋の鳶 江川久五郎さん、だそうです。

社殿近くにはもう一つ施設が。神楽殿です。


↑中には松の背景幕。
さて おいとまいたしましょう。


ありがとうございました。
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で 私達この後「三淵邸(ミブチテイ)・甘柑荘(カンカンソウ)での呈茶席」に伺ったのでございます。