伊香保(イカホ)神社 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

伊香保温泉へ来てみました。
宿(福一)にチェックインした後は_
石段街へ。

(宿の東通用口から 伊香保温泉のメインロードである石段街へ直接出られるのです。)


↑すぐ上に伊香保神社が見えます。

まず神社にご挨拶。

手水舎で手を清めます。

ここの「滴る式」への改造、ちょっとおもしろかった。


↑水飲み用の上向き蛇口から 水を竹の樋に移してるんですよー。/ なんだか 「水版ピタゴラスイチ」な感じでした^^)
↓石段を上がります。


社殿は右手 にありました。

(↑東向きに建っています。)
↓説明版。

「伊香保神社略記
御祭神/ 大己貴命 少彦名命
(中略)
本殿/ 伊香保温泉街三百六十五段の最上段に鎮座し、南に榛名山(ハルナサン)を配し、北東には越後連山が眺望される位置にあり、明治十一年(1878)春、伊香保大火により焼失し、明治十六年に再建、その後大正・昭和の改修そして平成・令和の大改修を経て、現在に至る。
由緒沿革/ (抄)垂仁天皇朝時代(紀元前29~70)の開起と伝えられ、仁明天皇朝の承和二年(835)名神大社(ミョウジンタイシャ)に 神階は承和六年 従五位を授けられ、後宇多天皇朝の建治元年(1275)正一位に列す。/鎌倉時代には 上野国(コウヅケノクニ)の三宮に、明治に入ると 県社 となった。
例大祭は九月十九日。承和二年九月十九日に大社の社号を授けられた事に由来している。」
(補足/ 群馬県北群馬郡吉岡町大久保の三宮神社は 伊香保神社の里宮とされているようです。/ Wikiによると 現在地への移転は平安以降ではないかとの事。又社号は 近世には「温泉神社」としていたものを 明治に入って伊香保神社に戻した~ そうな。)

ご挨拶。




社殿を回ってみます。

(↑何も描かれていない絵馬???)

裏、から。


神殿の後ろには 神輿倉(かな?)が建っていました。


この倉の脇からは 紅葉の名所「河鹿橋」へも行けたようですが・・・

(↓紅葉した楓の木の所から 坂道を上がれば河鹿橋、下れば薬師堂。)

そろそろ暗くなってきていたので、河鹿橋へは「ライトアップ」された夜、行く事にして・・・
境内をもう少し回る事に。

境内には他に_
↓末社の祠、

(↑上の額では一番右にに「三峯神社御眷属」と書かれてますが 続く三柱の神名(健御名方神 大山祇神 倉稲魂神)は 三峯の眷属ではなかろうし それに続くのは神社名とその御祭神だし・・・ はてな?)
↓神楽殿と社務所が。

↓社務所の飾り窓には_

↑「明治十六年本殿新築時の鈴」などに交じってー
↓陶製の河童の親子がいました。


↓神社の説明版の下には蛙の親子。

水繋がり ですかね?

芭蕉の句碑なども・・・

(↑左の句碑には「初時雨 猿毛(モ)小蓑越(ヲ) 不し気南梨(ホシゲナリ)が。その右の石は「高山彦九郎(←京都三条の「土下座」像の人!)腰掛けの石」ですって。)
↓この石灯籠も 「資料」として面白いものでした。

一見何の変哲もない灯篭ですがー

↑「この灯籠は、明治十五年県下新田郡阿久津(現在の尾島町)の白石栄左衛門が天保四年から五十年間に六十回の入湯を達成した年を記念して建立したものである。当時の交通手段や経費等考慮すればいかに伊香保温泉を愛したかがしのばれる貴重な資料である。」 全く アッパレ ですね。

こんな説明板もありましたよ。

↑「石段街のおいたち
 古来、伊香保には、湯元源泉地付近に湯屋が一軒ありましたが、四百有余年前、戦国の時代に、白井城主長尾輝景の家臣団に温泉とともにこの地が与えられ、石段を中心とした屋敷が作られました。各屋敷には温泉宿を兼ねた「大屋」とこれに付属する「門屋(カドヤ)」が立ち並び、石段温泉街がつくられていきました。」

へー。

ではその「石段街」、見て参りましょうー。

つづく_