甲斐善光寺 | (又)おだわらぐらし はじめました

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 背広を脱いだ夫と 結婚以来ずっと専業主婦の私との
「新しい日常」を綴って参ります

(石和(イサワ)温泉で一泊した後_)

旅行二日目。まずは武田信玄が開いたという甲斐善光寺(浄土宗)(正式名称は定額山浄智院善光寺)へ。

(↑山門からではなく 駐車場から向かったので 中途半端な絵で始まっております・・・)



↓香炉堂越しに金堂。

↓武田の紋の入った香炉。脇にお線香の自動販売機(200円)。

↓手水舎。


↑水盤にも武田の紋。

↓金堂へ。

(永禄元年(1558)に信玄が建立した七堂伽藍は、宝暦四年(1754)に焼失しており、現在の金堂は 寛政八年(1796)に再建されたもの、との事。)
↓屋根のてっぺんから 華やか~ です。(信州の善光寺と 造りは似ているのに 雰囲気はまるで違いますね?)

↓虹梁の上には龍。

↓木鼻には獅子。

↓折れ戸が並ぶ入り口。






入堂して 拝観~。
中陣の鳴き龍の下で手をたたき、ご戒壇巡り(秘仏である本尊の阿弥陀様の祀られる瑠璃壇の下の 真っ暗な回廊を手探りで回って「錠前」に触る事ができるとご利益がある、というもの)をさせて頂きました。 


↑リーフレットから「甲斐善光寺の歴史と宝物」~。
「当山は、開基武田信玄公が、川中島の合戦の折、信濃善光寺の消失を恐れ、永禄元年(1558)、御本尊善光寺如来像をはじめ、諸仏寺宝類を奉遷したことに始まります。板垣の郷は、善光寺建立の大檀那 本田善光公葬送の地と伝えられ、善光寺如来因縁の故地に、開山大本願鏡空上人以下、一山ことごとくお迎えいたしました。その後、武田氏滅亡により、御本尊は織田 徳川 豊臣氏を転々といたしましたが、慶長三年(1598)信濃に帰座なさいました。甲府では新たに、(かつての本尊仏の)前立仏を御本尊と定め、現在に至っております。

  江戸時代には、本坊三院十五庵を有する大寺院として浄土宗甲州触頭(フレガシラ)を勤め、徳川家位牌所にもなっておりました。豪壮な七堂伽藍は、一度焼失いたしましたが再建され、東日本最大級の伽藍として広く知られております。また、重要文化財五件、県指定文化財四件、市指定文化財八件をはじめとする文化財の宝庫として著名で、その一部は宝物庫で公開しております。」

(同じくリーフレットから)「鳴き龍」について_
「金堂中陣天井には、巨大な龍が二頭描かれています。廊下の部分のみ吊り天井となっており、手をたたくと多重反響現象による共鳴が起こります。当山の鳴き龍は、日本一の規模を持ち、参拝者に親しまれております。」


金堂そばの鐘楼。




↑信州から引きずって運んだと伝わる「引き摺りの鐘」。
↓鐘の下には丸い穴があいてました。

昔(高校生の頃) 韓国のお寺で 鐘の下の床をくぼませているのを見た事があります。確か「音響のため」って聞いたような・・・。/ この穴も音響のために設けられているのでしょうか?

その他境内には~


↑大仏さん?
↓その南側に池。



地蔵堂 などがありました。



順序はあべこべですが_
山門の方へ行ってみます。

(途中のハナミズキが 赤い葉と実を同時につけていて見事でした。)


山門は二体の仁王さんが守っていました。



↑欠損している部分を持ちながら 尚力強く雄々しくていらっしゃいましたよ。
↓説明版。

↑「善光寺山門付棟札(棟札付山門じゃなく)
 五間三戸の楼門で、入母屋造の構造を示すこの山門は、江戸時代中頃の宝暦四(1754)の大火により、本堂とともに焼失したが、本堂に先立って再建され、明和四(1766)年に上棟式がおこなわれた。
 両脇に仁王像を安置し、二階部分は、手すり付きの板廊下がめぐらされ、内部には仏壇が置かれている。巨大な朱塗の丸柱と白壁、銅板葺の屋根などからかもし出される雰囲気は、本堂の壮大な建築によく調和した山門ということができる。」

振り返って見る 門の向こうの金堂。




(↑山号の記された扁額)
↓寺号票。


ありがとうございました。/素晴らしいお寺でした。

続いては武田神社(武田氏旧居館)へ行ってみましょう。